拝啓 づめこ様
世間がいよいよ騒がしく暑さだけでも気が滅入るのになんだかなあと思わず思ってしまうような毎日ですが、夏バテなどなってませんか?
すごい勢いで毎日は過ぎていくのに嫌なことの思い出だけが鮮明でなんだかやだなあという気持ちとともに、このぱぴのキャッチボールのおかげで日常の嬉しかったこと、楽しかったことを唱える時間もあって、それにほんの少し救われるような、そんな気もしています。
今回、しっかり落ち込んでいたので今度は私が「ぱぴなかったー!」という番かも、と思っていたのですが。一つ、嬉しかったことがありました。聴いてください。
2年ぶりに友だちに会いました。友だちから声をかけてくれて、急遽飲みにいくことにしたのです。
とても恥ずかしい話ですが、最近自分の人付き合いの下手くそさに落ち込み、付き合いを極限まで減らしながら過ごしています。それこそ、恥ずかしくみっともない、と思うのですが、でもやっぱり無理に誰かと過ごして自分や相手を傷付けるのはなんとも嫌で、じっとひとりで過ごすことが増えました。
そんなわけで、その友だちにもとても会いたいけど声をかけるきっかけを失い、まあでも友だちだった時間がなくなるわけじゃないし、と心の中で言い訳を重ねながら過ごしていたある日。よかったら一緒に飲まない?と誘ってもらって、「まだ会えるんだ!」と感動しながら、向かいました。
実際、誘えば良いと分かってはいるんですが、どうしてもなんだか声をかけたけど、ちゃんと楽しいと思ってもらえるか、無理させないか、自分もちゃんと楽しめるだろうかと色々考えているうちに機会を逃しちゃうのだけど、誘ってもらえると実際、めちゃくちゃ嬉しいのです。
そうして飲んだこと自体もぱぴ、なんですが、その時話していたことにそうだなあ、と思った、そっちが今回のぱぴです。
気が付けば10年以上の付き合いになってる友だちなので、なんだかんだ共通の知り合いがいます。面識がなくても知ってる、という人もいます。そんな人たちの話をしながらふとその方が言っていたのです。
「なるべく、色んな人の名前を口にしておきたいと思ってね」そう思いながら最近は色んな人の話をするそうです。
確かに、もう二度と会わないだろう人が、年々増えている気がします。ライフステージの変化や私のように価値観の変化から交流を減らす人だっているでしょう。でも、そういう人たちが確かに「いた」ことを覚えていたいし、自分の人生と交わった瞬間はあったと確認したい。
会わなくても言葉にしなくてもそれは変わらないんだけど、でもそれでも、言葉にした方がいいな、と思いました。言葉にして、名前を出して、それで何が変わるわけじゃないけど、でもなんとなく、祈りに近いその感覚は分かるような気がします。
その日、色んな人の話をしました。本当に何年ぶり?ってくらい久しぶりに名前を聞いた人もいます。
これから、もう二度と会わないひともいる。会いたくない人だって、会いたくないと思われてる人だっている。
そういうことひっくるめて、確かに自分が色んな人と関わって生きているのだ、というのはすこぶる愉快な気がしました。
生きてる意味ねーな、と思ってしまうことも度々ありますが、誰かが自分の話をどこかでするなら、愉快な話であってほしいし、そのためには一旦、もうちょっと生きていた方が叶えられそうな気がします。
そう思えたことが、この8月の私のぱぴでした。
心が挫けるようなことが日々多いですが、どうか、づめさんもお元気で。
かしこ
つく
※※※※ ※※※※ ※※※※ ※※※※ ※※※※
拝啓 つくさん
気づいたら、もう8月が終わろうとしていますね。
夏休みの宿題も、最終日に急いで片付けるタイプだったなぁ、といまこのキャッチボールに向き合いながら思い出しました。
あいもかわらず、くるしいなぁという日々がつづいています。
ぱぴ、なぁ。縁がない。お前に囲まれて生きられたら、どんなにいいだろう。そんなふうにも思います。
ただ、ぱぴについて考察する中で、これは核心では?とおもうことがありました。
友人とストレスのむきあい方について会話していた時に。
「ストレスは慢性的にあるもので、ゼロになることはないと認識している」
「ストレス解消への期待値が高すぎるかも」という言葉を貰いました。
ストレスのない状態が「正」だとおもっていたことに気づきました。
こんな状態はおかしい、不当だ、酷い。
自分が悪いから?環境がわるいから?周りが悪いから?
どこかに原因があるに違いないと、なにかを変えなきゃ、とずっともがいていました。
「こんなに頑張ってもがいているのに幸せに慣れない」
「自分なりの善を、身を粉にして、つくしてもつくしても理不尽なことに見舞われる」
「もうあれもそれもこれも私が悪いからだ」
そんなことへの怒り。
じゃあ自分が消えればいいや、そんな自棄。
ストレスや悩みがあること自体が、ストレスで悩み。
しかし、この状態こそが「正」となると。
もう、もがいて、もがいて、ぼろぼろにならなくても、自分を憎まなくても、いいのかなぁと思いました。
苦しくて当たり前。悩みや、ストレスを抱えていて、あたりまえ。
じゃあ、それを踏まえて、どう生きようか?
視力が悪い、みたいなステータスと捉えると楽なのかもしれません。
デフォルトで、視界がぼやける。ぼやけて支障がでるときは、メガネをかける。場面に応じて、コンタクトレンズを選ぶ日もある。みたいな。
でもそれはあたりまえの状態で、「良い悪い」のジャッジすら行わないので、そこ(視力がわるい)に対するストレスはない。みたいな。
「お腹が空く」のと一緒だともっといいのかな。
生きていくために、お腹がすく。
お腹がすくのは当たり前だから、そこにストレスは感じない。
お腹がすいたら、何を食べるか、自分で状態に合わせてえらぶ。
ストレスや悩みも。
生きている以上、なんらかのストレスや悩みが発生する。
それは当たり前だから、狼狽えたりしなくていい。
ごはんをたべるように、メガネをかけるように、淡々と行動をするだけ。
なるほど、なるほど。
うん、書きながら、自分にいいきかせてますねこれ。
腑に落ちてはいないし、どこかで「結局生き地獄かよ!」とあたまをかかえている自分もいます。
けど、これは、今までになかった視点でした。
さて、明日からも生きなければなりません。
ゴールを【心身健康で暮らす】(ただし、ストレスや悩みはデフォルトで存在する)にして。
とりあえず、タバコをやめてみました。
そして、水分をたくさん取るようにしました。
ああ、ぱぴからは遠い話になってしまいました。
でも、ぱぴについて考えてなければ、気づかなかったことです。
ぱぴについて考える習慣が、あらたな発見をくれたこと。いうなれば、今回のぱぴは、この発見のことです。
一年の3分の2を、生き抜いて、のこり4ヶ月。
また共闘、よろしくお願いします。
づめこ
※※※※ ※※※※ ※※※※ ※※※※ ※※※※
8月の終わりに
なんだか、お互い疲れ切っていますね。
づめさんのお返事を読んだときに「あ、こんなところに」と思いました。
人と一緒にいて、「あれ、伝わんねー」ということがたくさんあります。
づめさんのよく仰ってる「ドーナツの穴を見る」という状態なんだろうと思うのですが、傷付く方傷付く方に進んでいるのだと自分でだってわかっています。
さらに言えば、それが周りの人にどれくらい迷惑なのかもなんとなく想像はできるのです。
でもじゃあ「全然痛くないよ、めちゃくちゃ楽しいよ」と明るいことだけを口にしたらいいのか。でもそれって「あなたの好きなように」の真逆じゃないか、と悶々としていました。
何をどうやっても誰かか自分か、あるいはその両方を傷付ける自分に心底腹が立つ。
だけど、づめさんのぱぴのキャッチボールで、あ、この人もなのか、となんだか勝手に嬉しくなりました。ごめんなさい、これもづめさんにも、他の人にも失礼な話です。
ただ、でも、やっぱり「伝わる」ことは嬉しい。自分だけだと思っていた地獄にも人がいるんだということは本当に、なんとも心強いものですね。
とは言え、なんだかんだとづめさんとの付き合いもそろそろ5年?6年?続いています。そもそも生活背景も生まれも育ちも違う我々です。きっとこうして感じた「おんなじ」は錯覚も大いに含んだそれでしょう。
だけど、良いじゃんか。
ちょっとずつズレたパラレルワールド的な、だけどよく似た地獄。全くおんなじではないけど、そこにづめさんがいると確認したらまだもう少し歩けそうです。
たぶん私はこれからも悩んだり怒ったり、悲しんだりすると思います。
づめさんのお友だちの言葉を借りれば「ストレス解消の期待値が高すぎる」んでしょう。全く、思い当たる節がありすぎます。
だけど、それでもどっかで何かになるような気もするから考え続けようと思います。
づめさんが、悩んで怒って苦しんだその時間が私にとって心強さになったみたいに。
出来れば楽しくはいたいけど、下手くそは下手くそなりに、自分の手の中のものを精一杯抱きしめてやろうという心意気です。
これから涼しくなるとまた季節の変化にやられることもありそうですね。無理にぱぴが見つからなくても大丈夫。それはそれなりで、やっていきましょう。
8月も本当にお疲れ様でした。