5.6月のキャッチボール

拝啓 づめこ様

 

一気に暑くなりましたね。天気も嫌な感じで、健康でいるのが難しいかんじです。なかなか、どうにか。と思うんだけど、ここから夏がやってくるんだ、と思うとこの「大変だな」が続くんだろうな、と分かってがっかりします。
タイムリーに今月のお題はコーピング、「わたしの回復魔法」です。


落ち込み続けている今だからこそ、むしろ、本当にタイムリーで「それを言葉にして乗り切ろう」と思ったりもします。

 

ここ最近、体調が良くありません。
あちこちが痛い。じくじく、押さえつけるような、寝違えた時のような痛みがあります。
強張るような感覚や、内臓がぎゅうっと握り締められたような居心地の悪さもあって「ああさすがにこれはおしまいだ」と思ったりもしました。
まあ、全然健康体だったのですが。
クリエイトをやるには、「社会で生きていけない」という顔をするには、いつもいつも私は健康すぎるし、平気すぎる。なんだかね。


私の中でばかり、嵐があるのです。やってらんねえぜ。

治療の対象ではないくせに、そこそこに人や自分には迷惑をかける。なんだよもう。

 

じゃあ、そんな私の回復魔法はなんなのか。
医療だとかその他諸々に適合せずに「やってらんねー」をしてきたけど、まあ、うん、分かるよ。
でも結構毎回傷付いてでも「治療できませんよ」と言われて、そういうたんびに「好きなものを増やす」というコマンドを発動してきました。好きなものを好きになった瞬間を振り返ると大体「あーあの時きつかったよねえ」があるのです。
きっと、その度に「まあまあまあ」と神様なりご縁が助けてくれたりするのかもなあ、なんて思います。まあ、それもちょっとなんか「誰かのおかげ」というのが気に食わないなあと思うけど。

 

でも今回の落ち込みは、それが効きませんでした。そうして出会ったはずのラジオすら(何かラジオで嫌なことがあったわけでもないのに!)聞けなくなって「おしまいじゃん」と思ったりもしました。
ただ、なんか、そのなかでラジオを編集したり書きたい文を書いたりしているとだんだんと、ちょっと、まあいいかと思ったり「あ、これしたい」と未来に意識が向かったりしました。なんだかそうしていると「あ、平気かも」と思ったりもしました。
文を書いたり、ラジオを編集したり「やりたい」を考えたりしていると「ああ、楽しいなあ」とニヤニヤします。どれだけ落ち込んでいても、「こういうのを作りたい」と思ってるとマシな気持ちになります。

 


自分のコントロール下にないものばっかりです。
なんだよもーと思うことが多い中で、「自分の想像」の中で生まれて形になっていくと嬉しくなったりもします。
作りたいな、と思ったことが、ちゃんと形になって、自分が欲しいな、いいなと思うものが形になると誰かのためになるとかならないとか価値があるじゃなくて「ああよかったな」と思います。
少なくとも、ここには安心できるものがある、と思うのです。
そうすると、心臓がちょっとゆっくり、安心してきて「あーよかった」と思います。

 

意味があるとかないとかじゃなくて、私は私を回復させるために何かを作るのがいるんだな、と最近、改めて気付きました。
なんでそんなに、と時々聞かれるけどただただ「回復したい」という気持ちだったのです。

 


暑くなるけど、自分の気持ちを大事にしながら、なんか、うまく生きていきたいですね。
そのためにも、あんまり、自分を追い詰めすぎず。

 

つく

 

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拝啓 つくさん

こんにちは。

日中は真夏みたいな日差しなのに、夜は毛布が恋しくなるほど冷え込んだり、5月ってこんな感じでしたっけ!!!?
ここから更に台風や梅雨、更なる気温上昇が確定しているの、あまりにも「面白くなってきやがったぜ」ですね。
夏を乗り越えるにあたり、そういうマインドで生きたいところです。

さて。
今月のお題、「わたしの回復魔法」。

お題選定時に、新年度や連休あけの五月病を想定してご提案したお題です。
そしたら、想定を超えて、5月は、フィジカル方面で2回寝込む、をやらかしました。
寝込むと、普段の生活リズムに戻すまでにまた日数が必要だったり、
体のどこかに不調があると、メンタル方面も引っ張られてぐずぐずするなぁとつくづく感じます。

…ここまで文章を書いて、いつもうるさいくらい言葉に溢れた頭がシンとしてさらに書けない事態にも。5月にボールを投げられず、6月半ばにようやく投球できた始末。

内省、言語化、創作、人との会話、エンタメ。

わたしの回復魔法はこのどれかなんだよなぁとなんとなく4月末に考えていましたが、その仮説は2026年5月6月の私にはあてはまらないことがわかりました。

全て、やりすぎると、ダウンしてしまう側面もあるな と薄々気づいてきてしまったからです。遠回しにしたのは、気づきたくないからですこんなこと。
好きだけど、楽しすぎてある一線を超えるまでやってしまい、しんどさを感じてしまうこともある。ぶっ倒れることもあるとか。やだし。

そんな1カ月プラス半月を通し、回復すなわちマイナスをゼロ状態に戻す魔法について明確に「これ」と言えるのは、医療への適切なタイミングでの受診と、適切な投薬及び、休養食事睡眠ではないかという結論に至ってしまいました。

つ…つ、つまんないよぉお!!!
そんなんさいあく!!!!!さいあくじゃーん!!
打ちながら思ってしまいました。

これは、なんか一個で全部ぜーんぶ解決したり最強になれる魔法があったらいいのに、と思う癖がありがちだからです。わたしに。
ずっとそうです。
実際、街ブラのたまたまの流れではありますが占いなんかも受けてしまったりした。
でも、やっぱり、別に占いを受けても、わたしはわたしのままでした。

心身ともに「ウー!!!!」となった時、
カウンセリング、占いや整体、マッサージなど、心身ともに一回の施術を受けたとて、不調や苦しみが一発で解決!!みたいなのって、ない。
結局苦しかろうが悲しかろうが、それを背負ったり宥めたり眺めたりしながら一つ一つコツコツ、地道に暮らしや試行錯誤を淡々と繰り返しつづけることしかないの、結構、結構、たまに、しんど!となります。

一発ですっきりしたいのに。一発でつよくなりたいのに。
積み重ねるしかないし、積み重ねたことの方が、効く、とか。

生きることが悩ましいのに、生きることそのものがコーピングになるって、あまりにも面白いなと思いました。面白い?なのか?そんなんあまりにも皮肉じゃん、なのか?笑うしかない、なのか。

こうして色々考えつつ、
意識が高い、丁寧な暮らし、などと揶揄されるとぶん殴りたくなるし、相手の大切な物を壊して周りたくなる爆弾魔のハリネズミみたいな気持ちに気づいた1ヶ月半でもありました。

少しでも心穏やかに、少しでも自分の在りたい姿に、そして世界にとってよき歯車になれたらいいのに。

まとまりがありませんが、ずっとずっとそんなことを考えています。

梅雨が来て、猛暑がスタンバッているので、お互い、どうか少しでも穏やかに毎日を過ごせますように。体調を崩すことも、時に自分に厳しくなることも、受容できずともまるっとおおきな風呂敷でつつんじゃって、それをわっせわっせと背負ったり抱っこしたり、時にクッションにして寝そべりながら、いきてゆけますように。

づめこ

 

 

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夏の始まりに

 

さて、どうやってお返事しよう、と思ったりもしていました。自分自身の余裕のなさと、さて、このボールは大事に返したいぞ、と思ったら遅くなりました。なんだか、ここは大事な気がしたんです。

 

体力が、あるほうだと思います。たぶん、そこそこに回復しながら好きなことをやれる人生を送ってます。よくもそんな精力的に、と言われるし、ここ数年「自分は体力値が異常なのかも」と気付きました。
2時間残業し、ジムに行き自炊をしてブログを書く。それはたぶん、結構、異常らしいのです。でも、私は、私の在りたいとは程遠くて、だから「足りてる」なんて思えないのに。

 

づめさんの言葉を読みながら、そっかあ、と考えていました。そっかあ、は他人事の話ではなくて。これ、伝わるのかな。回復って、難しいな、と思います。同時に「表現すること」も。


生きていること自体が回復かよ、といやだー!と思う気持ちもすごくわかるし、同時に私は最近、生活を面白く思っていて、だから、生活、かっけーっすよ!とも思うし。合わせて、自分が少し「表現することが回復」と言ったのは格好つけてなかったか、と思ったりもしました。そう思える自分で、私はいたかっただけじゃないのか。


……でも、なんか、生きていくことを諦めそうにはなるけど、まだ書きたいなあとか、ラジオやりたいなあと思ったら死ぬの勿体ねーと思えるということは嘘偽りないし。それは、私が生活が下手すぎるということだけど。あと、だというのに、成果物に「もっと頑張れよ」とは、まあ、さすがに思うんだけど。
でも、生きていくことも、表現をすることも、やり方次第では同じじゃないか、と思います。ただただ何も考えずに流されてるわけじゃなくて必死に自分なりに考えて「正解」を探してたら、なんというか、それは「表現」じゃないのか。


あ、それかも。
生きてることに「くそがよ」と思ってるから、生きていくことに納得感を持とうとすること、それが「回復」にもなるんじゃないか。だって「くそがよ」って苦しいので。
「悪くないじゃん」まで持ち込む方法を「回復」と呼ぶのかもしれません。
それが表現だったり丁寧に自分なりに整えて生活をしたり立て直そうと努力することになったり。それはその時々で、そして、きっと、たくさんあったほうがいいんじゃないかな。
そう、思いたいんだけど、づめさんはどうですか。

3月と4月のキャッチボール

拝啓 づめこ様

 

3月も終わろうとしています。
記憶がないまま走り抜けていました。仕事も半期の締めで、何より好きなラジオが終わることにバタバタとしていたり、世界がどんどん不安になっていくさまにオロオロしていたり。
かと言って、しんどかった、嫌な月だったというには幸せで、優しいこともたくさんあって「さて、今月はどんな月だったと言おうかな」と苦笑い、思ったりもします。

 

ちょうど今月のテーマは「覚えておきたいこと」。今月はことあるごとに「これだな」と思ってました。
友達と笑い合えたこと、久しぶりに飲めたこと、思いがけない人たちと遊んだこと、家族と大切な好きなものの話をしたこと。好きな音楽を聴いたこと、ラジオで大切な回が増えたこと。仕事の嬉しかった瞬間、逆に自分のダサさに吐きそうになったこと、それでも仕事をやるのが楽しいと思えるようになって数年前の自分に辞めないでいてくれてありがとうと言えること。
ご飯を作るか、と手に取ったレトルトを置いたこと。好きなケーキ屋さんで久しぶりにケーキを買ったこと。
覚えていたいと思ったのはそんなささやかな瞬間でびっくりしてしまう。
そして今、その時々に「この時間がいつか終わってしまうんじゃないか」と不安になります。
一緒にご飯を食べることが嘘のように難しく感じるかもしれない。当たり前に自由に何かの表現を楽しむことができなくなるかもしれないこと。「いつかこれをやろう」という何気ない約束が、切実さを帯びること。

 

世界はいつでもまあ、そりゃ、不安定だったけど、流石にこんなのはあんまりじゃないか。1日のふとした瞬間にそんなことを思います。

だけど、そう思えば思うほど「じゃあこの瞬間を覚えていよう」と思いました。
それはいつかなくしてしまうからじゃなくて。なくさずに済んだことを「ああよかった」と笑える日がくるように考えて行動できるように。生活を続けていくために。

 

この文章が「悲観的だなあ」と笑えますように。こうして「こんな生活を愛してる」と書くことも、私にとっては大切なことです。
とはいえ、キャッチボールが少し悲観的な、かつ、人を選ぶ内容になってしまってすいません。でも、また、こうしてキャッチボールを続けられますように。

 

つく

 

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つくさんへ

ようやく念願につくさんと再会できた、帰りの電車の中でこれを打っています。

今月のテーマ、「覚えておきたいこと」。

まさに、今日みたいな時間です。

お酒にすっかり弱くなってしまったと思ったけれど、ずっとずっと夢中で話しているとあっというまに酔いがさめてしまうこと。
自分の「当たり前」や自分が知覚している自分って。普段の環境で定義されているものなんだなって驚きました。

ほろ酔いで歩く、ともだちが住む土地の地下街のたのしさ。
スーパーで何をおつまみにするか話す瞬間。

自分が大切にしているモチーフや、入手を諦めていたグッズをプレゼントでいただいたときの、喜び。
名残惜しさから、駄々をこねてみたり、何度も振り返る改札口。
遠足前日の子どもみたいに眠れなかった前夜。

別れて電車にのった瞬間、うとうと眠気がおそってきました。
流れる景色をみつめながら、きらきらした宝物を、ひとつひとつ振り返って、噛み締めました。

とおくへ、ひとりでいくこと。だいすきなひとに、会うときめて、実行すること。
2年半ぶりに、それをやってみて、夢心地のいちにちを過ごせました。

推しが同じ、という共通点から出会ったのに、ほとんどその推しそのものを話をせず、なぜその推しを好きなのか、どうやって生きていますか、という話を延々8時間できたことがいちばんうれしくてしかたありませんでした。ぜんぶ、いっさいがっさい今日のことを覚えておきたい。

・・・と、書いた後。
全然文章を書けずにいました。

ツイッター(いまだにXと呼ばない)を中々開けなくなってしまうくらい、
世界の様子が不安定ですね。

いや、ずっと世界は不安定なのに、気づかない安全圏にいただけで、自分が晒された途端、過敏になるのか?と自嘲してしまったり。
戦禍にさらされた人の前で「情報をみるとしんどくなる」だなんて言えるのか?
そんな考えがぐるぐる巡ってしまったり。

ずっと幸福なあの3月末の週末みたいに。大好きなお友達に会いにいったり、好きなものを食べたり、好きな映画や本をよんで、喜んだり、言葉にしたい。
毎日穏やかに暮らしたい。

というか、穏やかに過ごさないと、自分の人生が回らない。ただでさえ、ぽんこつなのに。少し悩みが増えるだけで心身に支障が出る。

そんな背景から、テレビもスマホも触らず、映画やラジオを聞いて、家で過ごしていると、すこし穏やかな時間に浸ることができます。

変化が苦手です。不規則なものも、予想外なことも。
けれど、世界の中でいきている以上、自分ひとりで決めきれない、変えきれないことが多い。

自分自身の体力気力や経験値で、できること、できないことも変化していくなぁと感じています。

でも、穏やかに生きるのは、諦めたくなくて。
どんな状況にいても、さまざまな喜びを見いだせるようになりたい。
一歩、すこし無茶や勇気を出せる自分でいたい。

あっぷあっぷと混乱してしまうと忘れてしまいがちなので、キャッチボールで言葉としてのこしたいなと思います。

一瞬一瞬の喜びを噛み締めたい。そして、喜びのために、ほんの少し欲張りになること。

それを忘れずにいたい。覚えておきたい。

覚えておきたい、っていいテーマです。

握り締めすぎず、でも大切な。大切な大切なアルバムに貼るみたいで。

読む人を選ぶテーマかもしれないけれど。
ふと時間が経ったときに、この月のキャッチボールを見返して「あの時って世界はどんなんだったけ」と笑って話せるような。明日も明後日もかさなってゆく年月が少しでも良い方向にすすみますように。
お互い、いつもよりあまめに。穏やかに来月も迎えられますように。
また、つくさんに、会いに行けますように。

づめこ

 


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3月と、4月を見送って

 

 

そんなわけで、お互いにバタバタとしながら3月の話を3月4月にまたがって、5月にようやく、形にできました。
本当に私たちは世界の不安定さを他人事に出来ずに、かと言って行動をし続けて「大丈夫」に出来ずにおろおろと泣くように過ごしていたな、と今、苦笑い、思っています。

 

ここ数週間、自分の好きな人に当たり事故的に向いた言葉やタイムラインに流れる言葉たちに自分はどうする、と思っていました。
冷笑は持ってのほかだけど、行動の中で誰かを力一杯殴ることはいま、世界に向けている嫌悪と一緒なんだよな、とか。


でも、じゃあ「ないまま」過ごした、その消極的な暴力も選びたくないんだよな、とか。

そんなことをずっと考えていたけど「幸せでいたいし、幸せでいてほしい」それを視界に入る全ての人、いや、入らない人も含めて思えるようにそれを「綺麗事だ」と笑わずに過ごせるように。そんな風にやっていきたいと最近はずっと思ってます。

 

キャッチボールを見ながら、出来るんじゃないの、とそして思うのです。
たぶん、私たちはこれからも「なんだかね」と話しながら「幸せでいたいし、幸せでいてほしいね」と泣くような笑うような気持ちで話すんでしょう。
そうしたら、なんとなく。分からないけど、私が思う「平和の形」はこれだし、これが、結構、間違いじゃないのだと思うのです。


お互い、ぼちぼち、でも、絶対幸せの方向に、明るい方向に、過ごしていきましょうね。

 

暑くなったかと思ったら唐突に冷えた、5月の夜に。

2月のキャッチボール

拝啓 づめこ様

 

大寒波の威力にあまりにも凄まじくありますが、ご体調など崩されていませんか?
お互いに1月に僅かずつ削られたりしながら過ごしているような気がします。寒いからこそ、ただ当たり前に生きているだけで苦しく侘しくなるのかもねえとちょうど昨日友達と話しながら寒い中を歩いていました。
ただ、それはそれ自体が悪いことではなくて、「まあそういうもんだなあ」と思うのです。

 


さて、「2026年のお楽しみ」が今回のボールですね。最初、やりたいこと、や目標だと思って「さてどうしたものだろう」と思っていました。
でも、づめさんはそういうことも全部わかって「お楽しみ」にしてくれたんだなあ、と今、しみじみしています。
今年から手帳にこだわろうと思って「ウィッシュリスト」を作ろうとしました。そういうリストを作ると夢が叶うとも聞きました。それならやってみたい、と取り組もうとして書き出そうとして、ほとんど浮かびませんでした。すごいぞ。
何かやりたいこと、目標。何かあったはずなのに何も浮かばない。でも、思えば自分って目標だとかやりたいことを浮かばない人生だったなあと改めて思いました。さて。そう考えながら、づめさんのボールを見て「ああそうだ、お楽しみだった」と気付きました。

 

2025年は、私にとっては後悔がある年だったのだと気付きました。楽しいこともたくさんあった。頑張ったこともある。だけど、思い出すには苦い時間がありすぎる。
それは、なんか、かなり悔しい。頑張って過ごしてきたんだけど、いやむしろ過ごしていたからこそ、全然、ダメだったな。
そんなわけで、2026年の「お楽しみ」。自分の中で「やりたい」じゃなくて、楽しみと思うこと。
これ、かなり、このことを考える時点で楽しい気がします。
そして考えて浮かんだのは、なるべく、たくさん色んな人と話したり遊んだりしたいなあと思うのです。たくさん人にあって美味しいものを食べる。そんな予定が今もいくつかあるんですが、この楽しみを定期的にたくさん、作っていきたいと思います。「楽しみ」として。

 

そんなわけでづめさん、また、少し暮らしが落ち着いたら一緒に美味しいものを食べてくれませんか?


まだまだ寒く、心が折れる瞬間も多いような予感はします。だけど定期的に「楽しみ」を確認しながら、頑張り過ぎず、日々の暮らしを良いじゃん、と思いながら過ごしていきましょう。
また来月も、よろしくお願いします。

 

つく

 

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つくさんへ

ご無沙汰しております。

すっかり、2月も後半ですね。
1月のキャッチボールをスキップしてしまい申し訳ありませんでした。

元旦に子が発熱したことをスタートに、ずっと自分と家人が順番に体調不良、受験と並行して2か月連続で入院の介添えをするなど、スペシャルな幕開けをした2026年となりました。
(言い訳ではなく、ネタとしてやるからなのきもちで書いております・・)

2月最終週にして、ようやく通常の暮らしが戻ってきた感じがあります。

そんな流れから、1月のお題、「2026年のお楽しみ」。

「お楽しみ」について、1月に書きかけていた文章を読み返しながら、あまりしっくりこず眺めています。

予期せぬことがたくさん起こったこともあり、つくづく、
人生はその瞬間にしか味わえないものがあるなあ、と思いました。
そして、文章も、その瞬間にしか書けないものがある。

それを踏まえて、「今」おもう、「今」かける、「お楽しみ」について書こうと思います。

まず2026年は「楽しむこと」を肯定したいと思いました。
時間やお金を、楽しむために使ってもいいし、自分が楽しむために、誰かを頼ってみるのもいいんだ。
そういった肯定。
「失敗を恐れる気持ち」みたいなものも、捨ててしまいたい。
思っていたのと違ったとしても、正解じゃなくても、時間もお金も無駄になるかもしれなくても
なんの役に立たなくても、やってみていい。
いいんだよ、という肯定。

なんだか2025年から今日までを振り返ると、そういうゆとりというか、遊びの部分を削りすぎたんじゃないかなぁと思うのです。

あとは、あとは。
「見たい」「やりたい」と思ったものやことは、その時に多少無理をしても実行したいです。

というか、これをしないと、「やりたい」自体がわからなくなってしまうな?!という実感があります。

2024年から陥りがちな状態ではあるのですが、何というか、こっちを優先すべきだ、とか。体力を温存した方がいいかなとか。
そんなことばかり考えていると、ちっとも楽しくなくなってしまう。

入院や自宅療養期間に、見ようと思っていた映画は上映期間が終わっていました。
行こうとしていたショーも気づけば、申し込み期限を過ぎていた。
よくない言い方を選んでしまうと、
なんだか、こんなのは、こりごりだ!
そう思うのです。

とはいえ、ばたばた過ごす合間に、オアシスのような「好き」に出会えたりもしました。
その「好き」を握りしめながら、たまに見上げる星空みたいに追いかけ、眺めていると、
「やりたい」は、その瞬間、その熱量が高い瞬間にするのが一番楽しいなとも思うのです。

だから「やりたいな」と思ったタイミングで。
「やりたいことの消化」ではなく、「やりたかったことを楽しむ」そのものをやりたいです。

行きたかったところ。
ライブや、映画、舞台。
行きたいなあ。見たいなあ。会いたいなあ。
そういう気持ちを否定することなく、一歩を恐れることなく、大切にしてひとつひとつをかなえていきたいです。

決めて実行に移せる胆力と体力も大切にしたいです。
健康がないと動けない。
締め切り期限を忘れないだとか申し込みを忘れないとか。
気持ちや頭に余裕がないと。

そして予定を作らなければ、あっという間に1日が終わり1か月が終わり1年が終わる。
でも、けっして焦らずに。

なんだかなあ。なんだかなあ。かみしめたいなあとおもうのです。
食べることや、暮らすこと。生きることそのものもなんだって。
案外、自分は、頭でっかちになりすぎて楽しみ下手になりがちかもしれません。

思いどおりにならないなあ、なんだかなあ
そんな気持ちを感じた分
楽しいことはより一層きらきら輝くと思うのです。

まとまりがない文章になってしまいました。

今日、こちらの地域では20度近くまで気温が上がりました。
上着を着ずに、いや、むしろニットで汗ばむくらいの陽気でした。
つくさんの地域はどうですか。

寒い冬の中にいると、春や夏の日差しを忘れてしまいますね。しばらく「気温 着るもの」を検索する日が続きそうです。

寒い感覚や熱い感覚を忘れながら、つど巡る季節に呑まれるように、
悲しかったり楽しい感覚を、対の感情の渦中では忘れながら、くりかえし、巡って生きていくのかなぁ。なんだか、人生そのものだよな、それって、うん、悪くはないよな。

そんな気持ちで冬の終わりに立っています。

気温の乱高下など、不調のでやすい時期ではありますが。
どうか、冬から春へ移る変わる日々の中で「悪くはないよな」と思う瞬間が多くありますように。
春もどうかどうか、よろしくお願いします。

づめこ

 

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もう一度キャッチボールを始める2月と3月の狭間で

 

そんなわけでひっそりと2月をスキップし、なんなら1月も元旦更新が出来ず、とお互いに1.2月は自分のリズムを色んなものに大きく崩されながら過ごしていましたね。
ようやく少しずつあたたかくなって、これで少しは落ち着くだろうかの気持ちといや、それはそれで気持ちが揺蕩うんだよなあの気持ちがあります。


でも、それぞれのキャッチボールを読みながら。
春が近いからでしょうか。それでも「楽しみたい」と明るい方にいきたい、と思ってるんだなあと他人事のようににっこりしてしまいました。

我々は、ちょっと生きるのがクソ下手で、落ち込みやすく、遠い電波の中にこっそり隠れてしまいたいような、逃げ出したいような気持ちになりがちだけど。
そしてそれをなんとか奮い立たせては「負けるか」と戦おうとしてしまうけど。でもなんだか、今回のキャッチボールは戦う、ではなく、誰かを打ちのめそうとするのではなく、かと言ってお行儀良く整えてしまうのではなく。私たちは私たちのまま、明るい方にいこうとしてるんじゃないかしら。


大いに希望と願望を込み込みですが、そう思います。思いたいんです。それでもいいじゃん!
そういうことを力いっぱい祈るならここから春がくるこの季節だと、思うのです。
次のキャッチボールはどんな感じになるでしょう。とはいえ、落ち込む日もあるだろうな。でも、それも全部ひっくるめて、楽しみだなあと思います。

どうぞ、よろしくお願いします。

12月のキャッチボール

拝啓 づめこ様


日に日に寒さも増し、何より「今年も終わる」と思うからでしょうか。気持ちがそわそわと落ち着かず、何か見落としているような、もしくはご褒美が欲しいもう疲れたよと駄々を捏ねたくなるような、そんななんとも言えない毎日が過ぎています。
づめさんは、いかがお過ごしでしょうか?

 


12月はなんだかずっと苦しく、鬱々と息苦しさで過ごしていたような気がします。冬季鬱だと言ってしまえばその通りですが、毎度思うのは「そんなテンプレ的な解釈をしてくれるな」と駄々を捏ねたくなるくらいにはしんどいもので、余計に自分を持て余していました。

 


さて、なんでそんな話を始めたかといえば、今回のお題が「自分に贈る、今年の賞」だったからです。
私から提案したこのお題。自分の中で「頑張った」と思うのは「人付き合い」だったんですが、同時に「できなかった」ことも「人付き合い」じゃないか、とこの期間、落ち込んでいたのです。

 


コロナ禍以降、ここ2.3年のいろんな出来事で「もう無理はしない」と決めていた私がこの1年は「もう1回頑張ってみようか」と思っていました。
誰かと関わること、職場の人たちと向き合うこと。新しい誰かと出会うために行動すること。
事実、気が付けば、この1年で一緒に過ごす相手が増えました。今までなら人見知りを起こして行かなかった旅行にも「それなら」と飛び込んでみたりと、自分なりに変化も多かったと思います。そうしたおかげで、嬉しいと思うことも増えました。仕事でも、ほんの少し実を結んだこともあったような気がします。

 

 

だから、何か1つ自分を褒めてあげることが出来るなら、その「人付き合い」を頑張ったね、と言いたかったのです。

 

 


だけど同時に自分がいかに人付き合いに不誠実だったかを私は知っています。まあ、私のことですしね。
大事にできなかったこと、我慢できなかったこと。それを後悔しても「苦しかった」と自分の痛みばかりを思ってしまうこと。伝え方を間違えたこと。
挙げ出すとキリがなくて自信をなくして蹲りたくなります。
正直もう「人付き合いを頑張ろう」は任に合わない、諦めようと思った時期もありました。今月なんて特に「自分なんて人間が関わるからこういうことになるのだ」という心地いい自己憐憫に耽ったりもしました。

 

 

まあでも、今、年の瀬が迫ってしまえば「まあまあまあまあ」と思うのです。これから頑張ろう、と決めたばかりのことがうまくいかなくても、それはそれじゃないか。それを一つずつ思い出して反省して、いい方向に進めるように精一杯やってみようと思います。
そう思えるくらいには頑張ったので、やっぱり、労ってやりたいのです。

 

 

づめさんはどんな一年でしたか?
遠巻きながらづめさんの生活を見守っていた私は思い切りにご自身を褒めて欲しいなあと思います。年末年始はゆっくり過ごせるでしょうか。なるべく優しく、穏やかな時間でありますように。

良いお年をお迎えください。

 


つく

 

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つくさんへ

 

あっというまに12月末ですね。
多分毎月書いているこの出だし。

昨日から、気温がぐっと下がったようで、2日続けて、車のフロントガラスが凍っていました。
隣の畑には霜柱がたくさんできていて、おお、いよいよほんとに冬だなあと感じました。
つくさんの住む町はどうでしょうか。

スーパーでお正月飾りや鏡餅などを見たり、「よいお年を」と口にしたり。
ばたばたとしつつ、空気がひんやりしてきんと張り詰めるかんじ、年末だなあと感じます。


さて。「自分に贈る、今年の賞」。
今月も素敵なお題をいただき、ありがとうございました。
つくさんのボールを受け取り、
自分が「人付き合い」が苦手な分野だけに、もう、
「無理しない」と思ったところからもう一歩踏み出してみるって、一番パワーのいることだと思い、手に汗滲みました。

 

さて。わたしはこんなに頑張れたか。
2025年を振り返ると。

 

帰国時期を迷った日々、決めてからの帰国準備、帰国の荷造り、荷解き、家のリフォーム、子の進路に関する挑戦。
いろいろありました。

 

異国に行くのも帰るのも、新築物件を購入せず古い家を受け継いだのも、子育てするのも
全部全部自分で決めたことで、自分がはじめた物語の途中なんだから、つべこべいうなよ。
弱音なんか吐くなよ。 
みたいな考え方、しがちで。

 

例のごとく、テーマにそった文章をこの12月考えながら、「おめーに賞、贈れんのか・・・?」と思ったりなどしていました。

まだ、リフォームも進路決定も終わっていないんだから評価できないじゃん、とか。
完璧主義の成果主義、心身に悪い思考回路は相変わらずで。

 


けれど、今回のテーマがあるおかげで、そして、つくさんの「無理はしないと決めていたところからもう一歩踏み出してみる」
という言葉から、賞を見出すことができました。

 

物語の途中でも、結果成果への途中でも。
「諦めなかったこと」という部分は
過去から比べてできるようになったという点から、認めてあげられるのではないか?と。

 


そんなこんなで、2025年、づめこに贈りたいのは、「諦めなかったで賞」とします。

 

なにをあきらめなかったか、というと。
2年前から、自分ひとりの意思では進退を決められないことが増えました。
その中で、自分の意見や気持ちや適性を置いてけぼりにして様々な決定をくだし過ごした結果、
人生がちっとも楽しくなくなりました。

 

昨年後半から、苦しい環境から抜け出してみたり、自分の好きはなんなんだと考えてみたり、
試行錯誤する中で、今年は、配偶者や子、まわりの人の条件や意見も踏まえた上で、
自分のあきらめたくないことを口にして、選考のなかの要素にできたように思います。

 


自分の意思や趣味嗜好を感情を相手に合わせて押し殺さず、口にしてみること。
口にするにあたり、相手につたわる形を考えてみること。
最大限、子供の可能性を伸ばせる環境を作ること。
自分に安寧をもたらす環境を整えること。

 

このあたりをあきらめずに、がんばれたのかな いやがんばれたよ うん と認めてあげたいです。

 

収入や、環境、自分や家族の能力など、事実としての現実を踏まえた上で、
それを生かしながら、最大限の努力をして
自分や家族のつかみたいものをつかみにいく。

 

選択して歩き出した道を絶対正解にする、と決めて、最後までやってやるみたいな執念を持てたかなあと思います。

 

本当に我々、2025年よくやりました。よく、やりましたよね。
よくやりました。よくやった!!!!!!!!

 

来年の年末は、どんな気持ちでいるんでしょうね。

 

2025年のこの自分が、みらいへの種になればいいなと思います。
2025年があったから、今年ちょっとよかったわよ!といえるような。
そんな過ごし方が2026年もできたらいいなあと思います。

 

2026年にむかって、年末年始、お互いパワーをチャージできますように。

 

どうか、よいお年をお迎えください。
そして、来年もよろしくお願いいたします!

 

 

 


づめこより

 

 

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2025年の終わりを、2026年の始めから振り返って

 


完全に私が色んなことにやられていて(実家で「社会」と向き合うことになり調子を崩したり、親の期待のままに飲んで食べてしたくて調子に乗ったら胃腸をぶっ壊し、極め付けに10万を溶かす事態になっていたり)すっかり更新が遅くなってしまいました。
せめて4日には3が日が終わったら、と、あれこれ考えていたのにこのざまです。悲しいし情けない。
そう思いながらも、改めていただいたボールを読み返し、自分のボールを読み返しして「これはこれで良かったのかも」と思いました。

 

 

 

ほとほと、最近の私は自分に甘いので「これでよかった」の判断が早すぎるんですが。でも、生きていくんだから帳尻合わせの力技で「生きてるからおっけー」と言いたい気もします。

 


まあでもこれって我々の苦手な暴論な気もするので、もう少しちょっと言語化させてください。

 

 


私が年末年始過ごしながら「人と過ごすことの難しさ」を実感して、だから余計にづめさんのボールが沁みました。度々、づめさんは私の行動力を褒めてくれるけど、誰かと人生を歩む覚悟を日々繰り返しているづめさんの勇気と優しさ、強さこそ、私は褒め称えたい気がします。
そして何より、だからこそ、ご自身のことを諦めないということの尊さを思うんです。

 

 

 


誰かと人生を歩むことって自分の人生を全て開け渡すことではないのだ。
それって、すごく、優しくて嬉しくて素敵な事実な気がします。そして別にいま、単身という生活を選んでいる自分を下げたいわけでもなく、「そういうこと」と思うのです。そんな私とづめさんが、こうしてキャッチボールを続けていることだって「誰かと人生を歩む」ではないか。まあこれは、ちょっと怒られるかな。怒られるかも。10万を失いそうで心が揺蕩ってるので許してください(酷い話だ)

 

 

 

でも、そんな風に、本心、思ってます。たぶん、私が今、こんな風に思えたのは今の自分の状況だからこそなので。そういう意味では「もう全部それでいいじゃん」なんです。
これからも当面、こんな風にズルだと後ろ指さされそうなことを「大人の嗜みだ」と嘯きながら、やっていきたいと思います。でも、嘯けない日もあると思います。その時はまた、づめさん、一緒にキャッチボールしましょうね。
今年も、よろしくお願いします。

11月のキャッチボール

拝啓 づめこ様

 

寒くなる、と覚悟したら暑くて、かと思えば風が身を切るようで難しい毎日が続きますが、づめさんは風邪などひかれてないですか?
この季節になるとTwitterに「落ち込むのは寒さのせい」という言葉が溢れて、それはそれで「違うんだよ!本当に落ち込んでるよ!」という気持ちと「ならもうしゃあないか」と思う気持ちが交互に出てきて、ともあれほんの少し救われる気がします。
寒さには弱いですが、好きか嫌いかでいくと、私は随分と、冬が好きなようです。

 

さて、いただいたテーマは「つい見てしまうもの」。
例えばお芝居…それは舞台もそうですし、テレビ、映画。だけじゃなく、なんなら私は漫画やラジオ、小説、それどころか、日常で関わるひとたちにも「つい見てしまう」、それを見つけるとどうしたって好きになってしまうものがあります。

それは「ああ人間だ」と思う瞬間です。
どうしようもない情けなさも、美しさも、なんなら時々、醜さも。
お芝居で言えば、それを表現しようとする、人間ってそういうものだ、と思って、その温度や輪郭を確認して少しでも生み出そうとするひと、表現が好きです。
それはスキルの高さではなく(もちろん、スキルの高さもそうなんですけど!)ただただ、そこにある人や世界を見つめ続けようというような、そんな覚悟が好きなんだ、と思います。

 

これ、どこまで伝わるんだろう、と思うんですが。私にとって「表現をする」は、そういう意味だと捉えてるのかもしれません。
ただそのままだと憎しみすら生まれかねない世界や人間を表現し直そうとすることで生まれるおかしみや愛おしさが好きです。
そしてそれは、何も表現の中だけにあるんじゃなくて、日々の生活の中で「どうして?」と考え続けたり、自問自答や会話を続ける、もしくは目の前の生活や時間を愛そうとする、そういう人の姿にもどうしようもなくキュンキュンきてしまうのです。
それはいいものと思えるように加工してくれ、ではなくて、かと言ってただ曝け出したら良いわけでもなくて。一体、何をどうしたら自分が好きな「人間」になるのか、私自身は分からずに暗中模索を続けてますが。でも、少なくない私の好きなものの共通点って、それなんだろうなあ、と思います。


人間が嫌いだと嘯いてしまうけど、それはただ、「それっぽい」ただ「そこにある」だけのそれが嫌いなのであって、人間として生きようとしている人はどこまでも好きだから、もしかしたらかなり好きなのかもしれない。
最近色んな場面でそう思います。

 

でも、そういうことばかり考えたらどっか疲れてしまうし。なんなら、そうじゃないことの方が多い現実に草臥れて「もういいや」と思うことも多いので、落ち着け落ち着け、と自分を宥める練習も、した方が良さそうです。
もう一つづめさんからいただいていた「心のおかゆ」もしくは「ほっとするもの、楽しみな冬のこと」。
ドリップコーヒーかなあ、と思いました。
普段は豆を挽いて、ってやるのが好きですが、その中でドリップバッグのコーヒーがあると心強くて「大丈夫だ」と思います。
豆を挽く気力や余裕がなくても「美味しいコーヒーが飲みたい」の自分のために淹れてあげれた事実は自分を励ましますし、誰かからの頂き物なことが多いからこそ、優しさや寄せてもらった温かさも感じられて一石二鳥です。美味しいから三鳥か。

 

冬の寒さの中で、悲しいことへの照準が合わせやすくなるけど、むしろ、その中だからこそ気付けるあったかさを、この冬はいっこでも多く、探したいと思います。
そのためにも、元気で。づめさんも、落ち着かない冬だと思いますが、どうぞ、穏やかに健やかに、過ごされてくださいね。

 

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つくさん

今年もあと残り1ヶ月。びっくりしますね。
容赦なく時が流れていきます。
こんなに時間がさらさら指の間から溢れるのはなんで?と自責するも、冬だからな 寒いからいつもより悲観が割り増しになりがちだよと少し己を俯瞰して、すこしだけ落ち着いて諦めるのが上手くなった気がします。

さて。今回おねがいしたお題。
「つい見てしまうもの」。
ほんとうに贅沢です。自分の視点はあくまでも自分以上のものは見られないことを痛感します。他者の視点からみている世界を、他者の言葉で知れるって最高です。
最高のボールをいただいたからには、自分もしっかり投げねばとぐるぐる肩をまわしてしまいます。

関係性や執着。
診断や説明書やマニュアルのようなもの。
考え方、暮らしや自分そのものの整え方。

好きなものを並べて首を傾げました。
はて。情念?見せ方?

毎回、つくさんにお聞きしたい!と思ったことって、自分が自分で掴みきれず、でも掴んでみたいからテーマにしたんだな、とつくづく書きながら思います。

見てしまう、というには、形がなくて、言い切れない。だから勝手に見たくて、勝手に見たいものを見ているのかもしれません。

だから、勝手に見ている、見てしまう、という前提で言えば、
「矜持」や「信条」を見たいのかもしれない、と思いました。「誇り」?ぴったりの言葉がなかなか見つかりません。
その人たらしめている何か。生き様や命の炎の根っこのようなもの。
「わたしはこれがすき」「わたしはこれをまもる(人でも、ルールでも)」みたいな、胸を張って世界に大声で叫べるような、在り方。

だから、ツイッターでの人のつぶやきや、いろんなひとの、文章や音楽や映像といったつくりだすものが好きなのかな。好きなんだな?どうだろうか。
自問自答で、言い切る形にならず。でも、あ、なるほどかも?と、形ないもののどこかなにかに指を掠められた気がしました。

毎月言ってますが、書くのは面白いですね。描かなきゃ分からないことが沢山あるなぁ。

「心のおかゆ」もしくは「ほっとするもの、楽しみな冬のこと」。
それは、参鶏湯です。
参鶏湯は、自分でつくれないので、食べるたびにテンションがあがります。
特別に食べに行く日もありますが、胃の調子が悪いけどなにか外で食べなきゃいけない時にも食べます。あんなにおいしくてうれしいのに「わたしはいま体調がわるいんですよね だからこれを食べるしかないんですよね、、」という「わきまえ」や「諦め」をしなくていい。なんて優しく、心強い存在だろうとおもいます。

12月もあっというまに過ぎそうです。
年末年始に向けて、自分も世間も慌しくなりますね。つくさんも、わたしも。少しでもたのしく健やかにあるために、意識して一休みできますように。ここに書いたことで、少しでも思い出したいところです。
ではまた。いつもより強い祈りと背中を叩くような気持ちで。お元気で。

づめこより。

 


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11月のおわりに

 


読みながらしみじみ思いました。
自分の視点はあくまでも自分以上のものが見られないという言葉にそうだよな、と思います。
そうだよな、そうやって気付けないことがたくさんある、そう思います。ずっと。


最近、「自分が分かってることって何もないんだな」と思うことが多いです。多いどころか、ずっとそう思ってます。
私はなんにもわからないかもしれない。かも、じゃなくて何も分からない、本当に。

 

でも、こうしたら良いのかもしれないですね。こうやってづめさんがみてるものを教えてもらって、自分のみてるものを聴いてもらって、それから時々、「どういうこと?」とか「そうなの?」って聴き合えるような、そうしていいんだ、と思えることが、私は嬉しい。
きっとそれって、矜持や信条を「いいな」って聴いてくれるから、だから成立するんだろうな、と思います。
そのことにあぐらはかかずに、ちゃんと「ありがとう」って伝えながら、またボールを投げたいと思います。そうすることで、ちょっとは「わからない」が減るような、いや違うか、違います。分からないが減らなくても大丈夫だと、分からないと言われても大丈夫なんだとこのキャッチボール中は思うのです。


本当に、ありがとうございます。

10月のキャッチボール

づめさんへ


自分から「美味しいもの」というお題を出しながら、とんと浮かびません。ここ最近、旅行に行くことがあったり、その他諸々「美味しい」とされるものをたくさん食べて、実際「美味しかった」と思っているのに、いざ文にしたい美味しい、と思うと何も浮かばず、ただただ、「最近何を食べたっけ」と考えてしまいます。


最近なんだか、ずっとこうです。
自分が何を考えているのか、感じているのか。どっか現実味がなくてふわふわする。別に調子が悪いわけじゃないけど、ただただ、実感がない。

 


もう一つのお題は、「好きなものの話」。
これも迷いました。私がただづめさんに思い切り「好きなもの」について考えてほしいというわがままでこうしたけど、はて、自分は、と言えば多すぎるし、かと言って書き連ねるのはやりたいこととはずれそうです。


でもやっぱり、散々騒いでるしここで「かまみく」こと、かまどさんとみくのしんさんのことを挙げないのは逆張り的で良くないかもしれません。
去年から強烈に好きになって、今では彼らのラジオを一日で聞かない日はないくらいのハマりよう。落ち込んだ時も嬉しい時も考えてはニヤニヤとしています。たぶん今、心のエアーポケットなんです。

 

私はこの「心のエアーポケット」を好きなものにしている節があります。現実に塞ぎ込んで息ができなくなった時、好きなものを思い出して、正気を取り戻す。私はそんなふうにこれまで生きてきました。かまみくはそこに去年から加わったとても大切な存在です。

なんとなく、彼らには人としての在るべきや人と関わる気持ちを教えてもらってる気がしているのです。
ちょうど色んな交流を閉ざそうとしていた時に彼らに出会ったからでしょうか。それとも人付き合いが昔から得意というわけじゃないかまどさんが少しずつ交流の幅を広げていく様子や、みくのしんさんが、時には酷い目に遭いながらも人と関わる様子に「羨ましい」と思ったからでしょうか。おかげで、私は最近「人と関わること」を少し前ほど怖がらずになりました。
みくのしんさんがかまどさんのことを「俺の道徳の教科書」と呼ぶことがあるのですが、私からすればふたりが私の道徳の教科書です。

 

とはいえ、実は彼らのことを好きだと挙げるか迷ったのも事実です。
というのも今そんな彼らのイベントをしているのですが、何をどうやってもいけそうにないのです。
行けない、ということを言葉にするのは御法度と暗黙の了解がもしかしたらオタクにはあるかもしれませんが、とはいえでも、だって、行きたいし、行きたかったしだけど、どうしたって行けなかったのです。全ての中で最優先出来ないのに好きなんて。まして、一日の中で一番考えているかまみくですらそうなのに?なんて、意地悪く言ってくる仮想敵のことをふと考えます。それは、そうかも。もしかしたら、私はいま、何も好きじゃないのかも。

 

とか思うと、じゃあ何を書くよ、と思ったりもしたんですが。でも、やっぱり違う気がします。
私は、かまみくが好きです。人生の最優先に常においてられなくても、今一番で追いかけられててもられなくても。
一生、あの塞ぎ込んでいた中できらきら光ってげらげらとうるさく笑いながら風穴を開けてくれたのは忘れないでしょう。
何があろうが変わろうが「好き」の王冠を被せた相手はいつまでもその人だけの特別の椅子に座り続けるんだとふと、今日気付きました。

 


美味しいもの、と考えて、友達と食べた秋刀魚の酒蒸しを思い出しました。なんでもなく、ただただ、特別なこともせず、喋って遊んだ日に食べたご飯です。もっと感動的なエピソードも、特別な描写もないけど、でも、そんなものなのかも。派手でもなく、かと言ってエモさを狙うようなさりげなさもなく。ただただ静かに当たり前に誰と比べるでもなく自分の中の宝物ボックスに入れているものや人のことを、私は話したくて、聴きたかったのかも。

 

一気に冷え込みました。心細くなるような気候で、塞ぎ込みやすさもひとしおですが。
宝物を取り出しながら、そうして光を反射していけたら、と思います。困難を薙ぎ払うようなことは出来なくてもそうすれば、意外にくたびれずにやっていけるのではないか。
そんな仮説を、試してみたいのです。
づめさんも、どうぞ、秋から冬への時間を健やかに過ごしてくださいね。

 


つく

 

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つくさん

こんばんは。

こちらは冷え込んだ、寒い雨の夜です。そちらはどうでしょうか。

ほんとうに、秋冬は使い物にならなさが増すというか。さらに雨でも降ろうものなら、不調が増え、気が滅入ります。
そんな中で今回のお題である、「すきなものの話」。好きなものに対しひたすら考えて言葉にする流れそのものに救われました。

そう、ひたすら考えて言葉にしていくことが好きで。
過去すきだったものを思い出していて、そもそも好きからくる「没頭」やそれにまつわる思考をすることそのものが好きなのかもしれない、と思ってしまいました。
好きな何かを見つけて、深い深い没頭をする。頭のてっぺんから入ってくるような、心の奥底まで届いてわんわん響くような、外界の音がきこえなくなるような、そうした瞬間そのもの。
漫画や、歌や、お芝居をみて訪れる、その瞬間。

あとは、目を奪われるうつくしさがすきです。
うつくしさについて、人間のガワというか、肉体や顔面の造形といった作りというより、雰囲気です。
雰囲気や佇まい、表情ひとつひとつ。中にある経験感情あらゆるものが瞳に出たり、些細な表情になる。
なぜだろう、ずっと見てしまう。見ていたい。そんな対象に出会うと、何でかなぁと、見てしまいます。
生きる中で積み重ねてきたであろう、その人の人格がガワに滲み出てしまうかんじが。どうにも好きなのかなぁと思います。

姿勢や体の使い方、生来うまれもった与えられたガワに対して、似合う生かされるなどの研究や研鑽を重ねている様。

何でこんなに惹かれるのかしらと考えてみたのですが。
人間の、「こうしたらこう見える」という公式や記号をつねに探しているからです。多分。
人間のガワは、宣伝用みたいな物だと思っていて。こういう出立ちや振る舞いをすると大多数に仲間として迎えられる、みたいな解がどこかにあるようにおもいます。
最初は、多数から害されることがないように始めた研究でしたが、いつの間にか、扮することが面白くなって、表現の一環として楽しくなったから続いているんだと思います。

あと、「その人がその人の肉体を扱いきれている感じ」「その人らしさを発揮している感じ」。
たとえその人の中ではその人らしくなかったとしても、目を奪われてしまうのは、何らかの魅力が発揮されている状態で。それが発揮する状態はどんな条件があるのかな、と考えます。

ここまで書いていて、「ずいぶん人間が好きだな」とおもいました。人間きらい!とよく思いますが、好きだからこそ、興味があるからこそ、分からなすぎて嫌いなのではないか。
ともあれ、もしかして好きかもじゃん、と思えたのはこの文章を綴ったからです。
書くことで気づく自分もいたりして、思考するのは言葉にするのは楽しいな、これも「だいすき」だなぁ!!と今この瞬間に思いました。
素敵なお題をありがとうございます。

あとは、「食べたいもしくは食べて美味しかったもの」。
いま「食べたいもの」はシュトーレンです。
クリスマスまで薄く切りいただきながら当日を楽しみに待つ、なんて素敵な食べ物なんだと、10代の頃驚きました。
ふと先日、自転車で出かけた日に、気になっていたパン屋さんに立ち寄ったら予約受付をしていてとんでもなく嬉しい気持ちになりました。
秋冬は不調が増えるので、12月までの楽しみがあるだけで少ししんどさが紛れるような気がします。純粋にシュトーレンそのものを食べたい、というより、存在を愛しみたい話かもしれません。

こういう。こういう話をたくさんたくさんしたいなぁ。
強くおもいます。
あなたが何が好きで、何を考えているか。
そうしたやり取りをしていると、「生きていてよかったなぁ、思考は楽しいなぁ」と温泉に浸かって心底リラックスしているような、しあわせな場所で揺蕩うようなきもちになれます。

素敵なお題をありがとうございました。
あと今年も残すところ2か月ですね。
まじか、という感じですが。食べたい物をふやしながら、秋冬を楽しむ方向に思考をやりたいものです。
どうか、つくさんも、美味しい物や好きな物に想いを馳せ、すこしでもほっこりあたたかな時間が多い秋をお過ごしください。
また1か月生き抜いてやりましょう。

づめこ

 


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10月の終わりに

 

昔、みんながみんなお前みたいに過ごせないんだからね、と言われたことを覚えています。お前が好きなもののために生きていけるのは色んな責任を背負わずに過ごしてるからなんだからね。それは、ちょっと私が深読みした意味も含んでしまってますが、ともあれ、そんな感じのことを言われて、そうだよなあ、と思ったのです。
家族がいたら、仕事がもっと忙しかったら。その他、健康状況やら何やらによってもそれはそれぞれ、自分のためだけに生きていけないし、そういう意味では自分の「自分のために、好きなもののためだけ生きる」は幾分、幼いような気もしています。
でも、同時にそんなことはなくて、それぞれの「好き」があるはずでそれだって好きなもののために生きている、と呼んでもいいじゃんか、と思ったことも覚えています。誰に比べてどうだから「好き」で生きているとするのはなんだか、寂しいじゃんか。

 

今回、好きについて話しませんか、と決めたのはそんな独りよがりな気持ちからだった気もします。付き合ってくださって、ありがとうございます。
私とづめさんは、生活サイクルも、背景も違っていて、それでも、と思うのです。おんなじことを話したいんじゃなくて、確認したいんじゃなくて、それでも一緒に話して楽しいことを確認したかったんです。ありがとうございます。

 

最近、あまりにも人とうまく喋れず、それはもういつもの発作的なものなんですが、ああ、それでも、と思いたいんだな、とずっと思ってます。
合う人とだけ合えばいいと思いながら、それでも、おなじなんてあり得ないなかで、違うことを、でも話せることを、こうしてキャッチボールしながら確認させてくれること、ほんと、ありがとうしかないです。
なんか、もっとラフで楽しいキャッチボールが出来ることも素敵なんだけど!どうしたって不格好に湿っぽいボールばかりを投げてしまうことを!何卒ご容赦ください!の気持ち!


寒いとどうしたって落ち込んでしまいますが、その分より沁みるお茶の暖かさと、美味しいお菓子などを食べながら迫り来る寒さに負けず、やっていきましょうね。

夏のキャッチボール

拝啓 づめこ様


旅行に行きたい、というよりもどこかに行ってしまいたいというような心地がある時は旅行に行けないなあと思ったりもします。
今年の夏は毎日暑く外出も躊躇ってしまうような毎日が続いていましたが、づめさんはお元気ですか。
水辺が好きなので海が見れるところとかに行きたい気もしますし、逆に安心できるような宿でぼんやりとごろごろだけしたい気もします。
いずれにせよ、人が少ないところでじっと好きなことをしたいし、その時はスマホを置いて行きたい気がします。

 

さて、今回づめさんから頂いたお題は「行きたい、辿り着きたいところ」。だからか、ふとした瞬間「ああ、こういうところに行きたいな」と思うことが多い今月でした。
行きたいなあ、旅行。と思うたびに行くか、と思うんですが、これからの予定を思うと躊躇ってしまいます。
そういえば昔、好きなラジオパーソナリティが日帰りで行けるところに空港から向かい、そうしてそこで仕事をする、というエピソードトークをしていてひどく魅力的に感じたことを覚えています。もしかしたら「何かをする」のではなくて、移動自体が好きなのかもしれないなあと思います。バスが好きなのもそのせいかも。

 

人生で、となるとどうだろうと考えます。
どこに辿り着きたいですか、と聞かれてまだ考えています。どこだろう。
私は、今まで「将来の夢」というのをほとんど持ったことがなかった気がします。だからあんまり「目標に向かって頑張る」をやったことがありません。
志望校などはさすがにあったものの、たとえばどんな仕事がしたいとかこういう人生を送りたい、みたいなことをなるべく考えないようにしていました。
そんなものを持ったら「そうできなかった自分」にがっかりして進めなくなる。そういう怖さが漠然とずっとあり、それを乗り越えるほどに「やりたい」という感情はありませんでした。
なんなら志望校すら逆算的に「どこまでなら手が伸ばせるか」で考えて「かなり頑張ってもうまくいくか分からないな」と思うと怯んでしまう人間でした。いや、それでもそこそこ頑張って必死に努力はしたけども。でも、「叶えられるか分からない夢」は見たことがないです。となると、そんな私が今「辿り着きたい」と願う場所って、ない気がします。辿り着けないところを想像したくないし、どうしたって、してしまうから。

 

それでも、例えば嫌いな人たちがいない場所に行きたい、いやそれは無理だと思うからそれで心が揺らされる自分じゃなくなりたい。
自分がやりたい、でいいんだとぐっとお腹に力を入れて生きていけたらいいのに。そうなりたい、と思うし、自分のやりたいことにブレずに進みたい。ちゃんとやって行きたい。
そういうところにいきたいし、自分がそんなところに辿り着きたい。
自分のことを全員が好きじゃなくても。自分が好きな人とだけ、いやなんなら、ちゃんと自分に恥ずかしくないように。それだけ確認して、納得してやっていきたい。人の目ばっかり気にしてるわりに、人のことを考えられない自分が、私はちょっと嫌なのです。


ただ「辿り着きたい」という場所の話をしてるはずが、気が付けばどんな自分になりたいか、の「自分」のことに行き着いてしまう。どうにも、ここを変えるのが先決そうです。それも、全部、ゆっくりいっこずつですかね。


暑さは、10月半ばまで続いてしまうそうです。まだちょっと踏ん張り続けなきゃいけない毎日ですが、無理はしすぎず、なるべく楽しい方に夢を向けられますように。
来月もよろしくお願いします!

 

つく

 


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つくさんへ

お元気ですか。

先月の失態。
大変申し訳ありませんでした。
ボールが投げられないほどてんやわんやしていた8月末。新学期が始まって3週間が過ぎました。
そして、異国から日本に戻りちょうど2か月たちました。
なんと早いのでしょうか。

今日は肌寒いです。
長袖を出しました。
先週まで汗だくだったのに。どれだけ早いのか。あらゆるスピードが。
つくさんのまちは、これを読む頃、暑いでしょうか。うっすら秋の気配を感じたりしているのでしょうか。

 

わたしのまち。
10年ちかく住んでいる場所になります。

 

そもそも、もう私は40年ちかく生きている生命体で。
それなりに、いろんなことを経験してきたはずなのでありますが。
いまだにこんなに未体験のことがあるのか、と日々びっくりしています。
異国に行く前も、日本で生活していたはずなのに、見えていなかったものがたくさんある。
考えていなかったことがたくさんある。
どちらがわるい、いいとかではないのですが。まだ、そんな状態に不慣れです。気付くたびに取りこぼしてきたものを数え悔やむことに。

そんな生活のなかで、いちいち揺らいでしまう自分がほとほといやになりました。
おいおい、どこでもだめじゃないか。
会社を辞めても、異国から日本に帰っても。
どんな状態でも自分は自分でした。
いつだってそうでした。
たらればで描いた夢を叶えても叶えても、揺らぐことはなくならない。

今回のお題「行きたい、辿り着きたいところ」は、
新生活に翻弄されていた7月、どうにか奮起したくて、出したお題でした。
 
実を言えば、いつか、好きなことをして、ぽんこつな自分のまま、世界に居場所ができやしないだろうか。
そんな思いをのせたことをかけたらいいなと思っていました。
目標が決まれば、このけもの道もすこしはたのしくならないかしら。そんな思いです。

しかし、8月が終わり、9月ももう半ばをすぎても、やっぱりそれは書けませんでした。

すきなこととか言ってる場合じゃなくて。
生活への見通しが甘かったり、自分のキャパの問題だったり、なんだか数年で状況は変わってしまい、
なんだか毎日精一杯というありさまに。

とにもかくにも。
ただ、ただ、揺らがない、いつだって安定した状態でいたい。
考え込みすぎて顎に噴き出物が大量発生する。そんな自分じゃなく。
いつだって、よく眠れて、ご飯がおいしくて、好きなものを楽しめる状態でいたい。
好きな人を大切にできる状態でいたい。
いつだって、朝がうれしくて、夜も、明日も楽しみでしかたないとうっとり瞼を閉じて眠りにつくような。

ただただ、そんなご機嫌なにんげんになりたい。
にんげんにそろそろ慣れたい。

地球のどこでもだめ、どんな属性になってもだめ、みたいなうっすらした絶望から
いつか、心から、生きててよかったなあと心からおもう日々を過ごしてみたい。瞬間ではなく、継続する安らぎ。安寧。

たどり着きたい場所は、「場所」でも「職業」や「属性」でもなくて。そういう「在り方」や「きもち」なんだろうなあと思いました。
毎日毎日うっすら絶望しないなら、どんなことをしていても、どんな場所にいても、誰といたっていい。

けもの道も、けもの道のままです。
でも、あるかねばなりません。すすまねばなりません。いや、わたしが止まるのがいやなだけです。
あるきたい、すすみたい。うっすら絶望しているのが常ですが、この想いも常に握りしめているのも確かで。

だから、とりあえず、目の前のことを全力で一個一個しよう、と思います。
そもそもの、安寧のための基盤をかためつくしてやろう、と。
「たられば」を待つのはやめて。
毎日精一杯なのが自分なら。地球のどこでもうっすら絶望する自分なら。もう、それなりにやるしかない。その中でやるしかない。
その中で笑うしかない。

ただでさえ転びやすく揺らぎやすいので、冷静に状態を俯瞰して、優先順位を間違えないように。
万全の準備は怠らず。一歩一歩。

もう今年も残り100日だそうです。
そう聞くと、なんだか焦ってしまうけれど。
やっぱり一歩一歩。

季節の変わり目がやってきますね。
どうか、ひんやりするときは、あたたかいものを飲んだりしてすこしでもほっこりできますように。

言葉を交わせる幸福をかみしめながら、づめこより。

 


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苦しかった夏の終わりに

 

 

ほんっとに!しんどかったですね!
お疲れ様でした。またこうして、キャッチボールが出来てすごく嬉しいです。

 

なんの因果か、ちょうど私も最近、「あとちょっと頑張れば」と辿り着きたかった場所を逃しました。
でも、じゃあ無理してあの時、あと少しで辿り着いてたら幸せだったのか。そんなことをここ最近考えていますが、なんとなく、幸せじゃない気がしているのです。
それはもしかしたら「辿り着けなかった」自分を納得させるための詭弁かもしれませんが、でもなんとなく、しっくりきているんです。
たぶん、こればっかりは、そうだと思う。

 

私は、づめさんの幸せになろうとするところが好きです。どこかに自分の居場所があると信じて進み続ける強みがあると思います。

私はなんとなく、「ああもうどこにも居場所がないらしい」と諦めて過ごしている気もします。その上で面白がる、と、思ってはいるけど、そんな「各々」があるんだなあと思います。


どこに行きたいんでしょう、別にどこに行けるわけでもないのに。そんなことをずっと思います。どこかに行きたい、というのはただの「ここにいたくない」でしかなくて、じゃあ、とか考えてるうちに寝てしまった方が楽になるかと思うこともあります。

 

でもこうやってやっていくんでしょうね。
逃げたいと思う日も、向き合いたいと思う日も。時々は「ここにいたかったのか」と思う日も。途方もないなあと笑い出したいような、暴れ出したいような気持ちですが、言葉にしながら、誰かと話をしながら、やっていきたいです。


また来月も、キャッチボールしましょうね。