8月のキャッチボール

拝啓 づめこ様

世間がいよいよ騒がしく暑さだけでも気が滅入るのになんだかなあと思わず思ってしまうような毎日ですが、夏バテなどなってませんか?
すごい勢いで毎日は過ぎていくのに嫌なことの思い出だけが鮮明でなんだかやだなあという気持ちとともに、このぱぴのキャッチボールのおかげで日常の嬉しかったこと、楽しかったことを唱える時間もあって、それにほんの少し救われるような、そんな気もしています。

 

今回、しっかり落ち込んでいたので今度は私が「ぱぴなかったー!」という番かも、と思っていたのですが。一つ、嬉しかったことがありました。聴いてください。


2年ぶりに友だちに会いました。友だちから声をかけてくれて、急遽飲みにいくことにしたのです。
とても恥ずかしい話ですが、最近自分の人付き合いの下手くそさに落ち込み、付き合いを極限まで減らしながら過ごしています。それこそ、恥ずかしくみっともない、と思うのですが、でもやっぱり無理に誰かと過ごして自分や相手を傷付けるのはなんとも嫌で、じっとひとりで過ごすことが増えました。
そんなわけで、その友だちにもとても会いたいけど声をかけるきっかけを失い、まあでも友だちだった時間がなくなるわけじゃないし、と心の中で言い訳を重ねながら過ごしていたある日。よかったら一緒に飲まない?と誘ってもらって、「まだ会えるんだ!」と感動しながら、向かいました。


実際、誘えば良いと分かってはいるんですが、どうしてもなんだか声をかけたけど、ちゃんと楽しいと思ってもらえるか、無理させないか、自分もちゃんと楽しめるだろうかと色々考えているうちに機会を逃しちゃうのだけど、誘ってもらえると実際、めちゃくちゃ嬉しいのです。

 

そうして飲んだこと自体もぱぴ、なんですが、その時話していたことにそうだなあ、と思った、そっちが今回のぱぴです。
気が付けば10年以上の付き合いになってる友だちなので、なんだかんだ共通の知り合いがいます。面識がなくても知ってる、という人もいます。そんな人たちの話をしながらふとその方が言っていたのです。
「なるべく、色んな人の名前を口にしておきたいと思ってね」そう思いながら最近は色んな人の話をするそうです。

確かに、もう二度と会わないだろう人が、年々増えている気がします。ライフステージの変化や私のように価値観の変化から交流を減らす人だっているでしょう。でも、そういう人たちが確かに「いた」ことを覚えていたいし、自分の人生と交わった瞬間はあったと確認したい。

会わなくても言葉にしなくてもそれは変わらないんだけど、でもそれでも、言葉にした方がいいな、と思いました。言葉にして、名前を出して、それで何が変わるわけじゃないけど、でもなんとなく、祈りに近いその感覚は分かるような気がします。


その日、色んな人の話をしました。本当に何年ぶり?ってくらい久しぶりに名前を聞いた人もいます。
これから、もう二度と会わないひともいる。会いたくない人だって、会いたくないと思われてる人だっている。
そういうことひっくるめて、確かに自分が色んな人と関わって生きているのだ、というのはすこぶる愉快な気がしました。

 

生きてる意味ねーな、と思ってしまうことも度々ありますが、誰かが自分の話をどこかでするなら、愉快な話であってほしいし、そのためには一旦、もうちょっと生きていた方が叶えられそうな気がします。
そう思えたことが、この8月の私のぱぴでした。

心が挫けるようなことが日々多いですが、どうか、づめさんもお元気で。

 


かしこ


つく

 

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拝啓 つくさん


気づいたら、もう8月が終わろうとしていますね。
夏休みの宿題も、最終日に急いで片付けるタイプだったなぁ、といまこのキャッチボールに向き合いながら思い出しました。

あいもかわらず、くるしいなぁという日々がつづいています。
ぱぴ、なぁ。縁がない。お前に囲まれて生きられたら、どんなにいいだろう。そんなふうにも思います。

ただ、ぱぴについて考察する中で、これは核心では?とおもうことがありました。

友人とストレスのむきあい方について会話していた時に。
「ストレスは慢性的にあるもので、ゼロになることはないと認識している」
「ストレス解消への期待値が高すぎるかも」という言葉を貰いました。

ストレスのない状態が「正」だとおもっていたことに気づきました。

こんな状態はおかしい、不当だ、酷い。

自分が悪いから?環境がわるいから?周りが悪いから?
どこかに原因があるに違いないと、なにかを変えなきゃ、とずっともがいていました。

「こんなに頑張ってもがいているのに幸せに慣れない」
「自分なりの善を、身を粉にして、つくしてもつくしても理不尽なことに見舞われる」
「もうあれもそれもこれも私が悪いからだ」
そんなことへの怒り。
じゃあ自分が消えればいいや、そんな自棄。
ストレスや悩みがあること自体が、ストレスで悩み。

しかし、この状態こそが「正」となると。

もう、もがいて、もがいて、ぼろぼろにならなくても、自分を憎まなくても、いいのかなぁと思いました。

苦しくて当たり前。悩みや、ストレスを抱えていて、あたりまえ。

じゃあ、それを踏まえて、どう生きようか?


視力が悪い、みたいなステータスと捉えると楽なのかもしれません。
デフォルトで、視界がぼやける。ぼやけて支障がでるときは、メガネをかける。場面に応じて、コンタクトレンズを選ぶ日もある。みたいな。
でもそれはあたりまえの状態で、「良い悪い」のジャッジすら行わないので、そこ(視力がわるい)に対するストレスはない。みたいな。

「お腹が空く」のと一緒だともっといいのかな。
生きていくために、お腹がすく。
お腹がすくのは当たり前だから、そこにストレスは感じない。
お腹がすいたら、何を食べるか、自分で状態に合わせてえらぶ。

ストレスや悩みも。
生きている以上、なんらかのストレスや悩みが発生する。
それは当たり前だから、狼狽えたりしなくていい。
ごはんをたべるように、メガネをかけるように、淡々と行動をするだけ。

なるほど、なるほど。

うん、書きながら、自分にいいきかせてますねこれ。
腑に落ちてはいないし、どこかで「結局生き地獄かよ!」とあたまをかかえている自分もいます。

けど、これは、今までになかった視点でした。

さて、明日からも生きなければなりません。


ゴールを【心身健康で暮らす】(ただし、ストレスや悩みはデフォルトで存在する)にして。

とりあえず、タバコをやめてみました。
そして、水分をたくさん取るようにしました。

ああ、ぱぴからは遠い話になってしまいました。
でも、ぱぴについて考えてなければ、気づかなかったことです。
ぱぴについて考える習慣が、あらたな発見をくれたこと。いうなれば、今回のぱぴは、この発見のことです。

一年の3分の2を、生き抜いて、のこり4ヶ月。
また共闘、よろしくお願いします。

 

づめこ

 

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8月の終わりに

 

 

なんだか、お互い疲れ切っていますね。
づめさんのお返事を読んだときに「あ、こんなところに」と思いました。

 

人と一緒にいて、「あれ、伝わんねー」ということがたくさんあります。
づめさんのよく仰ってる「ドーナツの穴を見る」という状態なんだろうと思うのですが、傷付く方傷付く方に進んでいるのだと自分でだってわかっています。
さらに言えば、それが周りの人にどれくらい迷惑なのかもなんとなく想像はできるのです。


でもじゃあ「全然痛くないよ、めちゃくちゃ楽しいよ」と明るいことだけを口にしたらいいのか。でもそれって「あなたの好きなように」の真逆じゃないか、と悶々としていました。
何をどうやっても誰かか自分か、あるいはその両方を傷付ける自分に心底腹が立つ。

 

だけど、づめさんのぱぴのキャッチボールで、あ、この人もなのか、となんだか勝手に嬉しくなりました。ごめんなさい、これもづめさんにも、他の人にも失礼な話です。
ただ、でも、やっぱり「伝わる」ことは嬉しい。自分だけだと思っていた地獄にも人がいるんだということは本当に、なんとも心強いものですね。


とは言え、なんだかんだとづめさんとの付き合いもそろそろ5年?6年?続いています。そもそも生活背景も生まれも育ちも違う我々です。きっとこうして感じた「おんなじ」は錯覚も大いに含んだそれでしょう。
だけど、良いじゃんか。
ちょっとずつズレたパラレルワールド的な、だけどよく似た地獄。全くおんなじではないけど、そこにづめさんがいると確認したらまだもう少し歩けそうです。


たぶん私はこれからも悩んだり怒ったり、悲しんだりすると思います。
づめさんのお友だちの言葉を借りれば「ストレス解消の期待値が高すぎる」んでしょう。全く、思い当たる節がありすぎます。
だけど、それでもどっかで何かになるような気もするから考え続けようと思います。


づめさんが、悩んで怒って苦しんだその時間が私にとって心強さになったみたいに。
出来れば楽しくはいたいけど、下手くそは下手くそなりに、自分の手の中のものを精一杯抱きしめてやろうという心意気です。


これから涼しくなるとまた季節の変化にやられることもありそうですね。無理にぱぴが見つからなくても大丈夫。それはそれなりで、やっていきましょう。
8月も本当にお疲れ様でした。

7月のおたより

拝啓 づめこ様


尋常じゃない暑さが日々続きますがお元気ですか?そちらも暑いでしょうか?
暑さについて調べるとやれ湿度ややれ熱中症やで、身体だけじゃなく、心も憂鬱になると何かで読みました。さすがに「そりゃないぜ」と思います。今更だけど、本当にオールシーズン、「心身を壊しそうになるリスク」があちこちにあって、驚きます。
地球、もう少し過ごしやすくなってくれよ、と思いますし、というかそもそも天候という抗いようのないものが時折襲ってくるんだから、人為的なものくらい優しくいてくれよ〜と手足をバタバタしたくなりますね。

 

今月のぱぴ、はパズルゲームの話です。
たぶん、一年前くらいになるでしょうか。携帯に何種類かのシンプルなパズルアプリを入れました。
ソリティアなんかも入れてますが、メインはひたすらブロックを積み、一列にして消す、というお馴染みなやつです。ザ・テトリス!のようなものからはじめ、最近はテトリスの亜種みたいなやつをずっとプレイしてます。
ひたすら積み、消し、積み、消し、いっぱいになってパズルが消せなくなるとゲームオーバーです。
最初に入れたのは思考回路がいっぱいになりがちな人間にテトリスはちょうど良い、という噂を聞いたからでした。思考が煮詰まる時に延々と単純作業をすると気を逸らすことになり、煮詰まり切ってしまう前に思考が散るというのです。
それを聞いてやってみて、そんな気がするような、しないような、と思いつつ、私はパズルゲームをしています。効果があるか分からないけど、パッと消えていくブロックを見てると心地よく、私は最近考え事をする時、それが楽しいこと、しんどいことであっても、気が付けばブロックを積み、消しています。

それをぱぴ、なのかもと思ったのはづめさんのキャッチボールのお返事を思い出したからでした。何かを積み上げてきた、ということがぱぴになること。続くこと。それ自体が派手じゃなくとも、いや、派手じゃないからこそ、自分を勇気づけること。

 

パズルゲーム的には積み上げるどころか消すことを目指してるんですが、そのゲームの行為そのものというよりかは、そういう単純作業で自分を思考から逃してやれるようになった自分に「よかったねえ」と思ったのです。
ゲームをやる時間は言うまでもなく、無為ではあると思うんですが、そういうことを一日に少し取り入れてでもそれを「大丈夫」にするための時間だと自分が感じられること。
自分が心地よく過ごすためだからこれでいいんだ、と思えることはそれはもう、ぱぴだなあと思いますし、そうできるようになったのは「積み上げ」だと思うのです。
そうしてなんならそういう無為も含めて日常を送ることが、結構必要だよな、と思います。
今日久しぶりにコーヒーを挽きました。コーヒーを挽くこと自体はそこから美味しいコーヒーが飲めるので厳密には「無為」ではないですが、ガリガリゴリゴリ、何かを考えることなく手を動かせること。その気持ちや時間の余裕を持ててる、と思うのは、良いことだな、と思います。


コスパだタイパだ言われますけど、たぶん、それだけだと疲れてしまう。たまにはちょっと無駄に見えたり遠回りに見えたり、空白、を作ったほうがいいよなあと思います。
づめさんも、お忙しいと思いますが、ほっと一息つける時間がありますように。

 

かしこ

つく

 


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拝啓 つくさん

お元気ですか。

「無為」のおはなし、なるほど!となりました。

丁寧に、ゆったり暮らしたい。

ずっとそんな欲求があるのですが、じゃあ実際なんなら「ていねい」で「ゆったり」なんだ?とたまに自問自答していました。その答えがつくさんのボールでした。

素敵なボールを投げ返したい。
しかし。
今月、ぱぴはないのです。

お手上げです。

何もでません。

なんなら文章すら出てこずLINEを開いてはお詫びを打とうとすらしました。

生きてるだけでハッピー!それにきづけたよ、ぱぴっみたいな力技でぱぴをみつけようとしましたがうるせぇバカ!!ふざけんな!ぱぴへの冒涜だ!!みたいな気持ちがわいてしまい、それも無理でした。

探せば見つかる、と先月までのひらめきはどこへやら、今月のわたしは「ねぇよそんなもん!!!!」とやさぐれた暴れ馬のようです。

三食食べられて、屋根のある空調の効いた場所で眠れて、家族の身体も健康で、異国から母国へ帰って来れて。
状態だけみれば、「幸せ」なのに。

幸せなんだろうなこれが。でもぜんぜんいまそんな実感ないな。
どこかとおいところから、他人事のように、ぼんやりおもっている。

心はささくれ立っている。
ぱぴなんて、ないよ!!!と、怒っている。
だれに?自分に?環境に?
なんだろう、人生そのものに。

さまざまなスケジュールやタスクと考え事で、体も心もいっぱいいっぱいで。

つかれた、やすみたい。
それであたまがいっぱい。

考えて考えて、頭ばかり使って、心がついていっていないかんじ。
ちがうな、ひたすら頭をまわすために、動くために、心を黙らせているかんじ。
だって、やらなきゃいけないんだから。
いやだって、苦しくたって、やらなきゃいけないんだから。

休まないとなぁ。

そう思うものの、どうやってだよ、できたら苦労しないんだよここまで追い込まれないんだよ
とまた、やけっぱちな気持ちになってしまう。

休むにせよ、きちんとしなくては、という気持ちが強すぎて、休むことすら、きちんと休んで回復せねばと義務感が孕んだものなり、もうそれは休みになってないのだ。

こんなふうに頭が屁理屈をこねだす。

もうね、お手上げです。
むり。今月のぱぴは青い鳥。捕まえようとすると逃げてしまう。あばよ。探さないよ。

こうなったら、自分の機嫌をとることをちょっと意識しながら、生活を淡々とつづけるしかない。
しゃーない。
無理なものは無理。それでいーじゃん。それしかないんだもん。
日常のどこかにあるぱぴを感じる余裕がなくても、つらくても、どんなに消えたくても、どうしたって生きていくしかないんだもん。

とりあえずゆっくりお風呂に入って、ビールのんで映画を見よう。
とか打ち込んだところで、すこしだけぱぴが見えた気がする。おや。
探さないでみつかるぱぴもあるのかもしれない。

ほんとうにまとまりません。くやしい。

来月はどうなってしまうのだろう。
そんな不安を感じながら。

いまはビールをのみます。
生きていくために。ガソリン、いれます。

どうか、つくさんにも、美味しいビールをたのしめる瞬間がたくさんありますように。

づめこより。

 

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7月の終わりに

 

ほんっとに、クソみたいなことばっかりですね。

なんとなく、最近はずっとうっすらと悲しく、虚しいので、「ああ分かるなあ」と思いながらづめさんのお返事を拝読していました。

ぶっちゃけて良いならば嬉しかったです。
酔っている時にこの返事を頂いたのもあり、「えっへへへ」と素直すぎる感情でお返事したけれど、よくよく考えたら、悩みに悩んだであろう文に説明もなく嬉しそうにするのはそれはそれで不躾でした。ごめんなさい。
だけど、その上で言わせてください。


私は「ぱぴはなかった」というお返事すら、いや、お返事こそ、なんなら嬉しかったです。

だって、ぱぴ、全然ないことあるじゃないですか。
「生きてるだけで丸儲け」という言葉があまり好きじゃありません。どう考えても生きていることは地獄だと感じる瞬間のほうが多くて、それだけで無条件に肯定する表現は、なんだか別次元の話のように感じます。


それに、づめさんも書かれたように「生きてるだけで感じられるささやかな」喜び……ぱぴ、はなんだか無性に「やらされてる」感じを覚えてしまいます。

 

だって別に、そうありたいわけじゃないのに。幸せではいたいけど、同時にそんな曖昧なもの早々なれやしないとわかっています。
それから、私も同じように過去に「休むのだって体力と余力とスキルがいるだろ?!ていうか休む余裕や時間なんてどこにあるんだよ?!!」とブチギレそうになりながら過ごしたことがあります。休むことやご自愛の尊さが言われるようになった世の中はとても優しく、良いことだとは思うけれど、同時にすごく、残酷だと感じることがあります。

 

それでも、私たち、生き抜きましたね。
それをよかった、と言える気はしないけど、それでもづめさんが今日自分と同じように「クソだな」と思いながらでも生活を続けてくれていることは嬉しい。そして、こうして嬉しいと思えることも、すごくすごく嬉しい。
自分の生活が続いていることを無邪気に喜べなくても、それは確かに自分にとっての「ばぴ」だと思います。
次会ったら、きっと、生きるためのガソリンなビールで乾杯しましょう。
そうしてこのクソみたいな時間を続けていく憂さ晴らしと、とはいえ生き抜いた健闘を讃えて、たまにある「ぱぴ」を見つける日までの息継ぎを一緒にできたら嬉しいです。

 

とはいえひとまず。今月もお疲れ様でした!

6月のおたより

拝啓 づめこ様

 

さて、キャッチボールは楽しいけどぱぴ!的なボール見つけられなくね?!!と話した五月も終わり。
ほんの少し諦めも含めて身体に馴染んできた今日この頃いかがお過ごしでしょうか。同時にこの「諦め」は正しいのかしら、確かに傷つき過ぎないようにする賢さではあるのだけど、本当にそうかな、と考え込んでしまいます。
図らずも、今期の朝ドラでヒロインがそんな「諦め」に身体を沈める様子を聞くにつけ、そんな諦めを身体に馴染ませてくれるな、と思ってしまいます。となると、自分もこの諦めに慣れたことは安心どころかちょっと反省した方が良いのかもなあなどと思います。


で、です。
で、そんな流れでの今月の私のキャッチボールは、そのボールを落としてしまった時の話をしたいと思います。そんなのありかよ、って感じですが、どうしてもしたいのです。


この間、友人たちと旅行に行きました。
その旅行自体はパワフルに楽しく、帰り着いて数日、寂しさすらある素敵な時間でした。
ただ、その中で昼食を食べた時のことです。
お昼を食べたところが市場の近くの屋台のお店でした。鱧のフライのハンバーガーとじゃこ天やおうどんなどを置いてる週末だけのお店で、本当にどれもものすごく美味しかったのです。
その時に私はハンバーガーを、友人の一人がハンバーガーとじゃこ天を頼んでいました。
ハンバーガー自体がすこぶるに美味しく、じゃこ天自体にまだ警戒心があった私も「このお店のものならなんでも美味しいのでは?」と、友だちに頼んで、一口じゃこ天をもらいました。


まじで、今も思い出せるくらいめちゃくちゃに美味しかったんです。すごい。本当に、いまだに「あああのじゃこ天が食べたい」と思います。


それだけならある意味で「ぱぴ」なんですが。
私は「私も頼んでくる!」と立ち上がってレジに並んだのに結局頼まなかったのです。

というのも、並んだ側からいろんな人がやってきて、先にじゃこ天を頼んでいってしまったのです。後入り、といえばそうなんですが、なんというか、田舎のおおらかさくらいの自然さだったので私もまごついてしまい、でも、え、私の方が先に並んでたのに、とか、でも、そんなこと考えたくないなとかぐるぐる考えていたらだんだん、並ぶことも頼むことも、そうしてじゃこ天を食べようとすることもしゅるしゅると怖気ついてしまいました。
当然そんな一部始終を見ていた友だちたちは皆「え、頼みなよ」と言ってくれました。
でも揚げるの時間かかるし、待たせちゃうし、とまごまご言うのにも「いいよ、待つから頼みなよ」「後悔するよ」と背中を押してくれました。


だけど私は頼めませんでした。なんなら、その優しさ含めて申し訳なく情けなくますます嫌になって……これはたぶん、間違いなく、自分に対して……頼まずじまいで帰ってしまいました。

 

なんだかそのことをずっと考えてます。あの時、頼めなかった自分のことを考えてはあーあ、と思います。
それはあのじゃこ天食べたかったな、ではなくて、いやまあ、それもあるのですが。
自分のやりたいを信じてやれなかったこと、友だちの優しさを受け取れなかったこと、なんだかそういうことが無性に「あーあ」だったのです。
私にとって「ぱぴ」を拾い損ねたことは自分に優しくし損ねて、自分の好きな人たちを頼りきれなかったことなんだな、と思いました。
まあそれもこれも、考え過ぎなんですが。
だけど、同時に、ああ友だちはたぶん、怒らなかったよな、わがまま言わせてもらったらよかったな、次はそうしようと思えることも十分恵まれて幸せなんじゃないか、と思います。


あの時「頼んどいでよ」と言われた言葉が本心からの優しさというにも大袈裟なくらいの柔らかな当たり前のものだったことを私はなんというか、忘れない方が良い気がします。
次、自分を大切にし損ねることなんてないようにするためにも。

 

考え過ぎだし、なんというか気持ち悪いな、と思いますが。そんな脳みそであることは諦めて開き直って、形にしてみました。
これからどんどん暑くなりそうですね。
参ってる時の暑さは殊更に堪えますが、どうぞ、ご自愛くださいね。

 

かしこ

つく

 

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拝啓つくさん

6月が終わる だと?
呆然としてしまいました。

つい先日、5月のぱぴを掬ったばかりなのに。

さて、今月、ぱぴはあっただろうか。手帳をひらき、この1カ月を振り返りました。

埋まった手帳のスケジュールから、色んなことが思い出されます。

異国の地で出会った仲間と、何度も炎天下練習を重ね、ある大会に出て、優勝できたこと。
異国の地で、住む地域から離れ、初めて異国の新幹線(のようなもの)に乗り、旅行にいったこと。
歴史的な建造物を眺めたり、ホスピタリティの行き届いた美しい空間に身を置き、美味しいものをたべたり、家族と久々にゆっくり過ごせたこと。
とある出会いや機会に恵まれ、数日で、念願だった物件に引っ越しがきまったこと。
引っ越しが事後報告になった異国の仲間が、心から心配して、なぜ早く相談しなかったんだと言ってくれたこと。

振り返ると、なんだか、いろいろあった6月でした。

書き連ねてみると、全部、「出来事」や「かたち」としては、「しあわせ」に分類されるようなことばかりです。
ありがたいことに。

しかし、「ぱぴ」とは、また、違うな、とおもい、このボールを投げる前に考えました。

なぜかというと、これだけの「しあわせ」が連なっていても、実際のところ、心身が疲弊しきってしまっているからです。

肌荒れからはじまり、目眩に、不眠に。
6月は、顕著に体に異変が出てしまった1カ月でした。

スマホの画面に文字を打ち込みながら、ふと、この1カ月の一連の出来事がトリガーとなり、「わたしはどうしたいか」「わたしはなにがすきなのか」、逆に言えば、「わたしは何をしたくないのか」「わたしは何が苦手なのか」という基準を思い出すことができたなとおもいました。

異国へきて半年が経とうとしています。
いろんな出会い、出来事の蓄積を重ねた1月から5月。
そして、この1カ月があったから、選択をし、踏み出すことができた。

踏み出せた自分への、自信とでもいうのでしょうか。信頼、感謝、奮い立ち。

それこそが、「ぱぴ」です。

「ぱぴ」は、「しあわせ」よりも、「わたし」の核を突いて、じんと響くものだな、とおもいます。
一般的な、形骸的なものではない、わたしだけの、瞬間の機敏。

「ぱぴ」。
やはり、これがないと、生きてゆけない。


異国へきて半年たち、慣れ親しんだ環境を、また変える選択をしたこと。
日本からはるばる海を超え異国の家に住み、引っ越しはしばらくしたくないな、とおもっていたのに、また引っ越しです。
荷物を選別し、運び、納めたり。新たな地の環境に馴染んだり。

吉と出るのか、凶とでるのか。

いや、すべてを「吉だった」にしてやる、と、なんだか今は胸の奥にともしびが1つ、瞬いています。なんだか、強くなれた気持ちでいます。

「わたし」はどうしたいのかと胸に問いかけながら、またすすもうとおもいます。

自分を大切に、生き直したいなぁ、と思います。

自分を大切に、し損ねてしまわないように。
そんなふうに、7月は生きようと思います。

つくさんの、じゃこ天のお話をおもいだしながら。


だいじょうぶ、私たちは、2024年を半年生き抜いてきた。
これまでも、生き抜いてきた。

また来月のボールをたのしみにしています。
暑さをなんとかやりすごしながら、1日1日生きてゆけますように。

づめこより。

 

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6月の終わりに

 

 

なんともまあ、半年お疲れ様でした。

本当に、当たり前の顔をして生きていますが、お互い「いや結構奇跡やぞ、ここにおんの」くらいの感覚の半年でしたね。
改めて、お疲れでした。

 

自分を大切にするって、なんでこんなに難しいんでしょうね。
学生時代からぼんやり思っていたんですが、ひとって、たぶん、まず前提、ある程度不幸でいたがってしまうんじゃないかなあと思ってます。いたいはずがないのに。
でも幸せになろうともがいたりとか、幸せだって自信を持つってめちゃくちゃ怖くないですか?これ、ずっと主張してるんですけど。

 

でも、それに慣れてるとぱぴを見つけられるわけがないよなあとづめさんのお返事を読みながら思いました。
私のじゃこ天もそうですが「私はいいや」って思っちゃうとどんどんぱぴのボールが何もない、ひどく寂しいところにぽつんと自分を置くことになるし、じゃあそこに特別な何かを用意しても虚しいのかもですね。

 

そう思うと「ぱぴを探してキャッチボールみたいに相手に投げる」を目的にしたことでなんとかぱぴを探しにいく、これは、ものすごく、楽しいし自分をやなところに置き去りにせずにいれる方法かもな、と思いました。
またこっからの数ヶ月もきっとそれなりにクソなこともあるんだと思いますが。それはそれとして自分を置き去りにせずせっかくなら楽しい方向に手を引いていけたらいいですね。

 


7月もスタートしましたが、やってやりましょう。

 

 

 

づめさんが、このキャッチボールの話をブログに書いてくれました。うれしい!

5月のおたより

拝啓 づめこさま


ぶっちゃけ5月には落ち着くだろうと思っていた色んなことが一切落ち着かないどころか勢いを増してるんですが、これは一体なんなんですか?
お元気ですか、の気持ちだけどいやもうこのクソファッキン日常の中で元気な人ってもう完全なちょっとイカれ野郎じゃねえかって感じです。これは私だけなんでしょうか。いっそ私だけの方がいい気すらしてきました。

 

ともあれ、日々、ほんと、生きていく中で、どうもお疲れ様、という気持ちが増す一方です。

 


そんな毎日なので「ぱぴぱぴキャッチボールしましょう!」と宣言しておきながらなかなか自分が「ぱぴっ」としたボールが見つからず。
2ヶ月目にして? 早くない? とか、久しぶりに乗った深夜バスの話などはキャッチボールのボールとしては適切か否かなどと、「それっぽい」に逃げたくもなっていたんですが。

そんな中、ふと「何がうれしかったかな」と思い返した時に柏餅のことを思い出しました。

 

柏餅です。子どもの日のお菓子のアレです。

 

実家にいた頃はなんとなく漠然と食べていたお菓子を、最近はちょっと真剣に買って食べようとしてしまいます。特に私のライフスタイルの場合、季節や行事を忘れやすいので、「季節の食べ物」は結構重要なのです。
旬の食べ物もそうですし、いわゆるそういう関連した食べ物って、なんだか嬉しいし、ありがたいことにそこに連想できる記憶がある時、ああ私は幸せなんだな、と思います。


それで、今年もしっかり自分で柏餅を買ったんですけど、実はその後、友だちがお土産に柏餅を持ってきてくれました。
その子と私の分とで2個買ってきた友だちが「つぶあんこしあん、どっちがいい?」と聞いてくれたことをなんだか「幸せ」と聞いてここ数日思い出すのです。
本当に何気ない、普通の気遣いかもしれません。私もよく、あんこの何かをお土産にする時そうします。そうなのだけど、なんだか、その時はそこに勝手に優しさや愛情があるんだよなあと思ってしまったのです。

 

正直、私にあんこの粒あんこしあんにそこまでのこだわりはなく、どっちも「その時の気分」「お菓子の種類」で変わるくらいの好みです。

でも、何かを「どっちがいい?」と聞いてくれることが、なんか、すごく嬉しかった。


こう書きながら気付いたのですが、普段の生活だと私が私に「どっちがいい?」「何がいい?」と聞くことはあります。だけど、人にああして尋ねられるのが久しぶりだったからかもしれません。

 

とはいえ、何かを選び続ける毎日に疲れ切ってもいる今日なので「どっちがいい?」と聞かれたことというよりも「あなたが楽しいように」というその気持ちが嬉しかったんだろうな。

 

できれば、自分もそういう「どっちがいい?」を聞けるような人間でいたいけど、それにはまずはもう少し心身ともに余裕のある、あたたかな大きな人になる必要がありそうです。

とはいえそれも「べき論」的にしんどく思ってるというよりもそのあたたかなお守りの形を確認するためにも目指したいな、という「ありたい」な気がする。そんなことを思うのです。

 

なんだか、前回以上に取り止めもない話になってしまいました。
づめさんも、何か美味しい、区切りになるようなものを食べる機会にほっと一息つかれますように。

 

かしこ


つく

 


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拝啓 つくさん

 


つくさん、ボールをうけとりました。


いやあ、5月。新年度が始まり1ヶ月たつとはいえ、きっついですね。
ハッハッハ、あーあ、もう、ほんとうきっつい。
隠さずありのまま書くと、ほんとうに、投げ出したくなることが何度もあったヘビーな月でした。

 

まじで、生きてて偉い。
生きるコマンドを選んで、毎日、毎日をやりすごしてて、偉い。
5月まで生き抜いたことをつくさんとハイタッチしたいきもちでいっぱいです。

 


このキャッチボールも、実は、なかなかに苦戦していました。

おい、ボールどこだよ、投げらんないよ。

「ぱぴ」が日常のどこからも掬い上げられないまま、5月が終わりそうなことに焦りすらありました。

 


しかし、探すと、見つかるものですね。
いや、やはり、探さなければ、見つからないのだなとおもいました。探す姿勢で、目線でいなければ気づけない。

 


それは、なんだかあらゆることへの気持ちがのらない月曜日に、いつもと違う化粧をしてみたときのことです。

 

ふと、昨日までとは違う久しぶりに使うパレットをだして、いつもはあまり使わなかった色を組み合わせて瞼や頬を彩ってみました。
すると「なんか、いいじゃん」「こんな自分でも今日はのりきれそう」
そんなきもちになったのです。

 

気持ちのアップダウンがおおい毎日の中で、自分の力でちょっと気分を上向きに変えることができること。
それは、これまで、自分が1日1日を生きてきたことへのなによりの肯定だなとおもいました。
化粧を、いろんな失敗をしながら覚えてきた自分。
色々なアイテムを、試行錯誤しながら、集めてきた自分。

 

よく、へこんだときや、踏み出す力がほしいとき、デパートのコスメフロアに足を運んでいました。

 

過去の自分が、へこんだとき奮起するために購入したパレットたちが、今も、たちあがる力をくれる。
明日を変えよう、自分を変えようと、自分を諦めなかった過去の私のおかげで、今日の私が、今日を乗り越えられた。

 


おもえば、苦しいきもちに囚われてばかりで、自分をそうして上向かせる行動すらも思いつかなくなっていました。

 

ほんとうに、このキャッチボールがあってよかった。
探したから、気づけた。
探してなければ、「化粧」も、毎日の淡々としたルーティンとしておわっていくから。
探したから、淡々としたルーティンの中のよろこびの機敏にきづけた。

 

ああ。ああ。
ドーナツの穴ばかり見ずに、ドーナツをみつめる練習は、まだまだ必要そうです。
ないものばかりを見て嘆かず、あるものやできていることを見て、ひとつひとつを肯定すること。
まだまだ、どうにも難しい。
けれど、キャッチボールで、その練習ができること、ほんとうに素晴らしい。

 

もう6月がきますね。
梅雨や、気圧や、まだまだ翻弄されそうな予感はしますが。
また、来月、ボールをつくさんに投げられるように。ぱぴ探しを、毎日つづけてゆきたいなとおもいます。探すこと自体が、毎日をあかるくしてくれる、探すこと自体がドーナツそのものだと信じて。


づめこより

 


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5月の終わりに

 

 

正直自分もづめさんもなんだか日々生きているのがギリギリだったので、

ぱぴっとキャッチボールしましょうや!という誘いが負担になっていやしないか、そもそもネガティヴ村の自分たちがやるには無茶があったのだとかなり落ち込んだりなしにしましょうかと声をかけそうになる1ヶ月でした。
それがなんだかんだ、結局緩やかにでもヘロヘロにでもお互いにぱぴっとボールを投げられてなんだかとんでもなく、一旦、安心しています。


ほんと、お互い、よく頑張りましたね。

 

落ち込みきっていたからか、「巻き込んじゃったのかなあ」と考えた瞬間もあったんですが、
いただいたボールを見ていると「私がこのボールを見たかったので本当にすまんが引き続き巻き込まれてくれづめさん」と思いました。


とんでもなく個人的な話ですが、
今月言葉を尽くしたつもりが上滑りし、どこぞへ自分の言葉が流れていくような光景に出会いました。
それは「受け取ってもらえなかった」というよりも相手がボールを投げるどころか、確かにそこにあるはずなのに奥に奥にしまいこまれたように思えてそれが無性に寂しかったのだなあと今、こうしてためさんにボールを返してもらえて思います。


返してもらえたから嬉しかった、というよりも、一緒にどこかで同じように「ボールどこだよ!」とキレながら過ごしてくれていた「あなた」がいたんだということが心強かったんだと思います。
それはづめさんが書いていた「探さなければ、見つからないのだな」という感覚に近い気がします。私の場合、誰かとこうして「探す」必要があるのかもです。
そしてなんならボールが見つかること以上に「一緒に探す」ことが重要なのでは、という予感がしてます。


ほんと、今月もお疲れ様でした。まじで私たち、よくやりましたよね。

4月のおたより

拝啓 づめこさま


づめさん、今回は唐突なキャッチボールのお誘いに応じていただき、ありがとうございます。
四月が始まり、日々が慌ただしく過ぎてますがお元気ですか?
好きなアーティストが「四月はどうあっても鬱々とする」と言っていて、ほんの少しこのやり切れなさや苛立ちに諦めがついてきました。

 

頭痛ーるを使うようになったのがここ最近なんですが。
ほんの少し前は「気圧が下がるから具合が悪くなるらしいと分かったとて、対策が最終諦めしかないなら意味がないじゃないか」と幼く憤慨してました。
ただ、最近は「あーじゃあ仕方ねえ」と思える理由は積極的に見つけて「あーじゃあ仕方ねえ」と言うようにしてます。
他責は良くない自責であれ、という世界ではあるけれども、なんとなく、行き過ぎた自責はいつの間にかとんでもなく強烈な他責になるような気がしてきたので適度に人のせいにしていきたいなあと思うのです。

 


とかなんとか書いてると本題には入れないどころか本題以外の八つ当たりばっかりになりますね!

 

さて、このキャッチボールはついついそういう八つ当たりのような「ああやだ!」が増えがちな我々(とナチュラルにづめさんを巻き込んでいくスタイル)が毎日のなかで、いっこでもにこでも多く、ハッピーを……なんていうと大袈裟ですが、ぱぴぱぴした楽しいや面白い、そういう心地いいを探して行って報告し合うタイミングにしたいなあと思うのです。

 

ひょんなことからネットを通して仲良くなった共通点があるようなないようなな我々ですが、
日々のなかでわりとしっかり傷付くこと、その上で怒ったりしてしまうこと「なんなんだよもぉー!」ぷんぷんすることが近く、
でも同時に一緒だと「楽しい」に変えていけるような、そんな気が勝手にしているので思いついた企画です。企画です、というと大袈裟なので、肌感覚のままに言葉を選ぶなら、遊びです。

 

そう思うと、キャッチボールというのは言い得て妙な気がしてきました。

互いに毎日きっと戦わずささやかに生きていくのはどうにも下手くそですが、下手くそなら下手くそなりに嬉しいや楽しいや面白いやともかくそういう手触りの良いものを大きく喜びたいなあと思います。そうして、そういうことも一人だとどうにもうまくいかなかったり志半ばで終わったりしちゃうけど、
づめさんを巻き込んだらなんとか形になったり輪郭を持ったりするんじゃないかなあと思います。

 

そんなわけで、四月の私の楽しかった話です。


お気に入りの場所があります。
川です。かと言って、綺麗な川ではなく、釣りをしてるひとはたまに見ますが、まあ積極的に入りたいとは思えない雰囲気の川です。
ただ、私はその川が好きです。
どちらかといえばそっけなさもあるような川ですが、夜や早朝にその川に行くと落ち着きます。


ただ、ここ最近は忙しくてその川を見に行くこともできずに散歩のコースからも外して過ごしてました。というか、散歩自体がちょっとおざなりな感じでした。
散歩、というよりも歩数ノルマをこなす、だったここ数週間。
唐突に色々と嫌なことがあったので少し遠回りになる川を見に行くことにしました。
川に向かうか、まっすぐ帰るか。その分かれ道で川に向かった時、たまらなく嬉しい気持ちになりました。まだ川を見る前から無性にニヤニヤしそうになったのです。

 

川を見たらそれはもう、ああうん、ここが好きな場所だなと噛み締めたんですけど、それより何よりも「あ、川に行くんだなあ」と思った時点でとんでもなく嬉しかったことが私の中では大きくハッピーな出来事でした。


少し前、若林さんが「行きたい場所があると街は輝く」という話をしていたんですが、それを体験として感じました。なんなら、行きたい、とはまたちょっと違うんだよなあ。
そうじゃなくて「ここに行けば大丈夫という場所に向かっている」ことがなによりも嬉しかったんだと思います。

 

かなり慌ただしいだろう毎日の中でこのキャッチボールがあんまりご負担になりませんように。
時々手の中に「あ、ボールある」と気付いたタイミングで投げ返してもらえたら嬉しいです。お互い、楽しいがひとつでも多く増える時間になりますように。

 

かしこ


つく

 

 

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つくさんへ

 

お元気ですか?

このたびは素敵なキャッチボールのお誘いを有難うございました。

4月の初めにボールをいただき、あっというまに4月半ばですね。
もう4月!
早かったような、とてつもなく長かったような。

今年1月に海をわたり異国の新しい環境にきて、見えない未来におおきな目標を描くことよりも、自分がこれまで積み上げてきたことをひとつひとつ振り返ることのほうが、自信というか、踏ん張れる力になるな、と思うことが増えました。
ですので、1月から3月まで、2024の4分の1はすでに生き抜けたことを褒めたいところです。

わたしも、つくさんも。そして、みんなみんな、偉い。ほんとうに、よく生きてきたよ。

さてさて。
つくさんの頭痛ーるの件、外部要因への他責、大賛成!とぱちぱち拍手をしたいような気持ちで拝読しました。
わたしも、気圧の変化や寒暖差、ホルモンバランス。ついでに、月の満ち欠けや、スケジュールの状況なども、心身の揺れの外部要因としています。


たのしく生きるために、健康な心身は不可欠ですね。不調は外部要因と照らし合わせながら、過度な自責はせず、できるかぎり、前を向いて、穏やかなきもちで、いきてゆきたい。

ボールをいただいてから、なかなか「ハッピーや幸せってむじいな」と手のなかでひたすらボールをこねくりまわして、お手紙をしたためられず、返球できずにいました。

「よかったこと日記」を書いてみたりもしたのですが、どうしても「頑張ったこと、タスク的な目標達成成果」ばかりを書き出してしまい、なんだか、疲れてしまったりして。

おいしいものをたべた。たのしいところにいった。うん、そう。そうなんだけれど。なんだか、そうじゃない、もっともっとささやかなものを感じたいんだ。
言うなれば、感度を上げたいんだ。物事をみる角度を変えたいんだ。

わたしが長年抱いている
物事をつい悲観的な角度で見つめてしまう癖。

それは、毎日のあゆみを、時折重たいものにします。

ささやかなよかったことにきづく感度があげられたら、そんな癖も徐々に、ちがった角度からみつめられるようになって、日々うまく自分とやっていけるんじゃないかなあ。
そんな思いで4月前半をすごしました。

けど、今朝、ようやく、ボールを投げ返せる!と気づいた瞬間がありました。

それは、基礎体温をつけるという、最近始めた習慣の中おとずれた感情を捉えた瞬間です。

基礎体温の計測記録をはじめたきっかけは、最近、風邪というほとではないけれど、微熱があるという症状が月に一回やってくるようになったこと。

単に風邪のひきはじめなのか?いや、タイミング的にもしや高温期なのではないか?などとと考え、自分の心身不調をもたらす外部要因の傾向を把握しようと初めました。頭痛ーる自分版、みたいな。

朝目が覚めて、薄暗い部屋で、枕元に置いてある基礎体温計に手を伸ばし、体を起こさない状態で体温計をくわえます。
電子音が鳴ると、画面に体温が表示されるので、アプリを開いて、今日の体温を入力します。

入力後、グラフの画面を開いて、前日以前からの基礎体温の推移を見つめていました。

そうするとなんだか、毎日毎日をこつこつ生きている実感や、日々自分のデータを蓄積することで毎日心身の状態が変わり翻弄されることへの受け身がとれるような気がして、少し、ほんの少しですが、今日も生きようという力が湧いてきました。

自分がきめた、自分に優しくするために、毎朝自分との約束を守る、というちいさな成功体験。
それが、ちいさな力を与えてくれるのかもしれません。

ほんとに、ほんとにふと、「おや、これが、わたしの感じたかったものなのでは?」と思い至りました。

それは、幸せやハッピーと名前をつけるには、とてもささやかすぎる感情の動きでした。
それこそ、「ぱぴ」というちいさな、ゆるさのある名前が近いような。

ふと、ちいさな子供が履く、一歩踏み出すと音が鳴る靴みたいだなぁと思いました。
自分が動いたらなんだか鳴ったちょっと嬉しくなる音。
もう一歩うごいたらまたこの音が聞けるかなあ。
あるいちゃおうかな、踊っちゃおうかな。
こんな嬉しくなる靴を履いているなんて、なんてたのしい。

わたしがほしかったのって、こういうきもちだ!とおもったのです。

自分が、そんな靴を履いていることにきづけたのこそ、このキャッチボールと名付けた往復書簡のおかげでした。

ぱぴぱぴキャッチボール。

ボールを投げようと足を踏み出すたび、我々の足元で「ぱぴ」っとちいさな音が鳴るのでしょう。

たのしいね、うれしいね、と、ぱぴぱぴ音を鳴らしながら、つくさんのなげたボールを見つめて手を伸ばし、つかまえられること。
ほかでもない、つくさんが、ボールをまっていてくれること。

こんな楽しい企みにお誘いいただけたことも「幸せ」そのものです。

つぎはどんなボールが飛んでくるのかなぁ。
そしてそのつぎはどんなボールをどんなふうに投げようかなぁ。

それをまた楽しみに、いちにちいちにち、引き続き生きていこうと思います。


づめこより

 

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4月の終わりに


お返事、ありがとうございました。
4月も無事終わり、また新しい月がやってきますね。
なんというか、日々「楽しい」を探して時が進むことを待っているのに、でもどっか、終わってしまうことにも怯えてしまうので
なんだか、そんな中でのづめさんの「積み重ねた」の嬉しいは読んでいてすごく嬉しくなりました。


最近、なんで私はこんなに色々やりたくなるのか、ずっと考えています。
たぶん、こういうキャッチボールをやりたいことや、それをわざわざ(そうたぶん、わざわざ!)ネットに公開すること。一人ならともかく、そこにいろんな人を巻き込みたくなることは人によってはおかしく、勘違いしていて「イタイ」ものなんだろうなあと思います。

だけど、づめさんが投げてくれたボールを観て、でもやりたいんだよなあと思いました。
なんだかそうして日常の彩りを一緒に見てくれる、そんなことがたまらず嬉しくて、それを一個でも形にしたくて、そうしていたらそれこそ私は自分の毎日を好きな形で重ねることができるような気がするのです。

 

キャッチボール、付き合ってくれて、ありがとうございます。
5月もまた、楽しいキャッチボールができますように。